ステーキ丼

「ガイアの夜明け」で特集された、超ホワイトな飲食店「佰食屋」は、どのようにして生まれたのか?

『売上を、減らそう。
たどりついたのは業績至上主義からの解放』

中村朱美(ライツ社)2019/6/14発売 
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定年後だったはずの夢を28歳ではじめた

大きな塊で仕入れる国産牛モモ肉。余分な脂身のない上質な赤身を、肉の旨味が最大限に味わえるよう、絶妙な焼き加減で仕上げる。肉汁が逃げないよう少し休ませてから、スライス。
丼にごはんをよそい、香ばしくなるまで炒めたすじ肉、赤ワイン、醤油などでつくった特製ステーキソースと香味オイルをかける。てっぺんにはフライドオニオンと三つ葉。最後にごはんが見えなくなるまでぎっしりと肉を並べ、もう一度自慢のステーキソースを回しかける。
これが佰食屋の看板メニュー、国産牛ステーキ丼。書いているだけでもお腹が空いてくるくらい、おいしそうです。
食べ歩きと料理が趣味の夫は、わたしと出会ったときにはすでにこのレシピを完成させていました。夫の夢は、「定年退職したら、自分のレストランを開きたい」というものでした。
ですが、2012年7月。28歳のわたしは夫にこう告げたのです。
「まだ子どももいーひん(いない)し、二人の年収が3分の1になってもいいから、やりたいことがあるなら、いまやろう」。
それから4か月が経った11月、京都・西院で佰食屋をオープンしました。
開業資金は、それまで貯金した500万円。これを元手にまずは1年やってみよう。「もしうまくいかへんかったとしても、もう一回会社員として勤めれば、なんとかなるやろ?」そうやって夫をなかば強引にたきつけて。

なぜ飲食業界はブラックなのか

国税局の発表する「民間給与実態統計調査」(2017)によると、業種別の平均年収で「宿泊業・飲食サービス業」はもっとも低い253万円でした。
人手不足で、その穴を埋めるために過重労働を強いられる。それにもかかわらず、働いても働いても賃金が上がらず、長時間労働で疲弊していく―。
これが、飲食業界の現実です。
なんとか売上を上げて、利益を確保するにはどうするべきか。ここで多くの経営者はこう考えます。
「利益率の高い『お酒』をたくさん売って、儲けよう」。
お酒を売るには、夜間営業が不可欠です。夜は人によって食べる時間も飲む時間もまちまちで、営業時間が長くなります。
そして次にこう考えます。
「同じだけ家賃やテナント料を払うなら、なるべく長い時間営業して、できるかぎり商売をしよう」。
ランチ営業、さらには朝食営業まではじめ、結果、年中無休や24時間営業の店舗が生まれていきます。
そうやって、朝から深夜まで通し勤務、土日祝もお盆も年末年始も休めなくなる。こんなブラックな状況が、まだまだ一部の飲食店では根強く残っています。休みの日、子どもと一緒に遊園地へ出かけたり、運動会や授業参観に参加したり……そんなことは夢物語です。

シェフだった父は言った「飲食店だけはアカンで」

あまりに、理不尽すぎます。
食べることは、暮らしの根幹を担っているのに、それをつくっている人たちが満足に休めず、家族と過ごす時間も限られてしまうなんて。
なんとかして、こんなよくない「当たり前」を変えたい─。
そう考えたのには、理由がありました。
わたしの父は、ホテルのレストランのシェフでした。母はそのレストランで接客係をしていました。つまり職場恋愛です。母はその後専業主婦となり、わたしたちを育ててくれたわけですが、父は当然、仕事が終わるのは夜遅く、帰ってくるのはいつもわたしたちが寝た後でした。
それが突然、あるときから同じ食卓を囲んで、一緒に晩ごはんを食べられるようになりました。
それは、父が交通事故に遭って数年後のことです。
後遺症が悪化した父は立ち仕事が難しくなり、経理課に異動することになりました。つまり、父がシェフを辞めてはじめて、わたしたちは家族で過ごす時間を持てるようになったのです。
皮肉な話です。
そういった事情もあり、両親からはことあるごとに「飲食店だけはアカンで」「飲食の仕事はやめときや」と言われてきました。だから、わたしは学生時代も含めて、ほとんど飲食店に勤めた経験がなかったのです。唯一やっていたのは、マクドナルドのレジ打ちだけ。
当然、佰食屋をはじめようとしたとき、両親は大反対でした。
けれども、わたしはそれを乗り越えてでもやらなければ、と思っていました。夫の夢だったから、というのもあります。
でもなによりも、わたしは食べることが大好きだったのです。
「食べるために生きる」と言っても過言でないくらい、旅先や街角のお店でおいしいものを食べることが好き。夫と出会ってからも、いろいろなお店に行っては、これは! というものを探すことが楽しみでした。けれども、それをつくり出している人たち自身が、長時間労働や低所得で幸せを感じられないのは悲しいことです。
この現実を、変えたい。だから、わたしたちが理想とする働き方を飲食業界で実現しようと考えたのです。


佰食屋なのに最初は20食すら売れなかった

佰食屋も、はじめから順風満帆だったわけではありません。
オープンしたのは2012年11月29日、「いい肉の日」でした。たまたまテナントが空いたのがその時期で、「語呂がいいね」「幸先もいいね」と、いよいよはじまった冒険にワクワクしていました。小さなお店でしたが、こんなにおいしいステーキ丼を用意したんだから、きっとすぐにお客様も来てくれるはず。
けれども季節は冬。京都の中心部は盆地のため、心底冷えこみます。観光シーズンも閑散期に入り、観光客もずっと少なくなるのです。
近くに住む人や駅周辺で働いている人が「新しいお店がオープンしたんやな」と来てくれるくらいで、1日20名くらい来ればいいほう。到底100食には及びませんでした。
来る日も来る日も、今日は10名、その次は15名……と、一進一退。夜の営業までやっても、やっと30食にいくかいかないか。20時の閉店時間を迎えると、泣く泣く食材を廃棄しなければなりませんでした。
誰にも食べてもらえず捨ててしまうなんて、本当にもったいないし、悔しいことです。
「アカン……これは、失敗してしもたかもしれんね」。
オープンして早々、わたしは夫に弱音を吐いていました。毎日のように、寝る前に涙が出ました。

爪楊枝を置き忘れていることにすら気づかなかった

ステーキ丼をいかにおいしく提供するか。見栄えよく盛り付けるのか。食材も食器やトレーも選び抜いて、「これがうちの看板メニュー」と胸を張れるものが完成していましたが、わたしたちはやはり飲食店の素人。もう1つ大切な「お店のオペレーション」には、ほとんど目が行き届いていませんでした。
6つ折りナプキンを置き忘れたり、玄関の入口にすべり止めマットを敷いていなかったり……。レジもレシートが打刻されるようなものではなく、単にお金を入れただけのもの。「爪楊枝ない?」と聞かれて、それすら用意していなかったことに気づいたときには、自分でもあきれてしまいました。「あんなに夫婦で食べ歩きして、飲食店を知ったつもりになっていたのに、いったいなにを見ていたんやろ」と。
あれがない、これもない。毎日のようにスーパーやホームセンターへ買い出しに行っていました。
そんなわたしたちを、地元のお客様はあたたかく見守ってくださいました。「家族で頑張ってるんやなぁ」と、たびたび足を運んでくださりました。
昼間に来られた方が、その日の夜にも来てくださったり、次の日に会社の同僚を連れてきてくださったり、毎日来てくださる方がいたり。毎日12時になると、いつもの顔ぶれがカウンターにずらっと並び、「給料日だから今日はお肉ダブルにする」と仰られた方につられて、「わたしもダブル」「僕はトリプル」と、結局、お店にいる方がみんな肉を追加してくれたこともありました。
思い出すのは、佰食屋が入っているテナントの上に住んでいた、とあるお客様のこと。DJをされている方で、たびたび店へ通ってくださっていたのですが、あるとき「僕たちがつくった曲なんですけど、よかったらお店で流してもらえませんか」と、CDを持ってきてくださいました。当時、わたしたちは有線を契約するお金すらなくて、お店では音楽をかけていませんでした。それをみかねて、お客様が用意してくださったのです。
いまでもその曲がラジオでかかると、あの頃を思い出して、胸の奥がキュンと軋みます。……支えてくださったお客様への感謝は忘れることができません。

誰も来ない夜とゼロになっていく通帳のお金

100食完売には一向に届きません。
ランチタイムにいったん満席になっても、その次のお客様が来られない。14席1回転でおしまいです。17時半から夜営業をはじめても、ほとんどお客様が来ませんでした。
営業中、やることもないので、電卓を叩いてずっと計算をしていました。
このままでは、1か月も持たない……。
開店資金の500万円は、改装費や開店準備にほとんど使っていましたし、肉も毎回現金払い。まだ信用がないので、請求書払いはさせてもらえなかったのです。
食材もまとめて卸せるほどは買えません。なくなりそうになるたびに自転車でスーパーへ買いにいき、前カゴに大根、後ろのカゴには三つ葉を乗せて走りました。
お店自体は暇なのに、買い出しや銀行との交渉など、やらなければならないことがたくさんあって、その上、肝心のお金も底を尽いてしまいそう。通帳とにらめっこしても、お金が増えるわけではありません。それでも何度も見てしまう、黒く印字された数字……。おそろしいほどの早さで桁数が減り、ゼロに近づいていきました。
晩ごはんは、営業時間の合間にバックヤードで、残った冷やごはんにお漬物をのせて、お茶漬けをかきこむ日々。心細くて、ジリジリと追い込まれて、どうしようもない不安に押しつぶされそうでした。
「やっぱり、無謀やった」。
泣き顏で後悔するわたしを、ずっと励ましつづけてくれたのが、夫でした。
「大丈夫や」「まだみんな店を知らんだけ。知ってもらえたら、絶対来てくれる」。
拍子抜けするくらい楽観的。もし夫がいてくれなかったら、わたしはこの時点でとっくにあきらめていました。

たった1件の個人ブログでお客様が押し寄せた

そんな日々が1か月続いた頃。忘れもしない、2012年12月27日。
突然お客様がうわーっと押し寄せました。いつものように20食分くらいしか食材を用意していなかったのに、お客様が途切れず来られること、およそ70名。あわてて営業時間中に食材を買い出しにいきました。
いったい、なにごと? お客様に「なにをご覧になっていらっしゃったんですか?」と尋ねると、「Yahoo!のトップページを見た」とのこと。どうやら、どなたかが個人ブログで佰食屋を紹介してくださり、それがYahoo!の地域ニュース欄にリンクされていたようなのです。
その日を境に、お店の様子はガラッと変わりました。
昼は50名くらい、夜は20名くらいと、毎日のように70名以上はお客様がいらっしゃるようになったのです。口コミサイトにもコメントが寄せられるようになり、一人客や家族連れ、遠方からの観光客など幅広い方にお越しいただけるようになりました。
年が明け、今度は地元の情報誌に掲載されました。「Leaf」という、京都で知らない人はいないタウン誌です。掲載された翌日から、雑誌を手にしたお客様が次々と来られるようになりました。
そして、それまでわたしたち夫婦と義母の三人で切り盛りしてきたお店でしたが、1月に一人、2月にもう一人と正社員を雇うことになりました。
「知ってもらえたら、絶対来てくれる」。夫の言葉は本当でした。

オープンして3か月後はじめての100食完売

地元の情報誌に掲載されて数週間後。
2013年3月10日には、関西ローカルの街ぶら系テレビ番組「大阪ほんわかテレビ」に取り上げられました。「関西の美しくて美味しい丼」に選ばれたのです。やはり、テレビの影響力はとてつもなく大きなもの。紹介された翌日から、お客様が店の前に列をつくるほど、ひっきりなしに訪れるようになりました。
そしてやっと、夜の営業も含めて、ではありますが、目標としていた100食を売り切ることができたのです。
開店から3か月弱、名実ともに「佰食屋」になった瞬間でした。
そして、テレビ放映から1週間後の3月17日には、はじめてランチだけで100食を完売させることができました。
100食売り切れない日はほとんどないくらい、忙しい毎日がはじまりました。がむしゃらに働いて、「また来てくださいね」と笑顔でお客様を見送って。暇だったときの泣き顔と比べたら、晴れ晴れとしたものです。お客様をお待たせしないように従業員を雇い、余裕を持った体制でお店を運営していけるよう整えていきました。
オープンから1年が経った頃。ようやく「あ、そろそろ大丈夫かな」と、ふと思えるようになりました。それまでは、従業員の給料日前に銀行へ足を運んで、ATMに並んで、一人ひとり手入力で給与を振り込んでいたのを、やっとネットバンキングから振り込めるようになったのです。
ネット振込にかかる月額1080円の手数料さえ、佰食屋にはもったいなかった。その1080円を躊躇なく払えるようになってはじめて、わたしたちが選んだ道に間違いはなかったことを確信できました。

(つづく)




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