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電車とホームのわずかな隙間が、深い谷のように見えた【認知症世界の歩き方】

認知症のある方の心と身体には、どんな問題が起きているのでしょうか? いざこういうことを調べてみても、見つかる情報は、どれも医療従事者介護者視点で説明したものばかり。肝心の「ご本人」の視点から、その気持ちや困りごとがまとめられた情報が、ほとんど見つからないのです。

この大切な情報を、多くの人に伝えたいと思い、書籍『認知症世界の歩き方』から1話ずつ、全文公開いたします。興味を持っていただけましたら、お近くの書店やAmazonでお買い求めいただけるとうれしいです。

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ぐね〜りくらくら  びっくりラビリンス

知症世界。この世界には、足元が蜃気楼のように揺れたり、色や形が変幻自在の巨大サボテンが突然行く手をはばんだりする、砂漠の迷宮があるのです。

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これまで何人もの冒険家が砂漠の横断に挑んできましたが、遭難者は数知れず……。

この砂漠は、歩みを進めれば進めるほど、想定外の景色に出くわします。吸い込まれそうなほど真っ暗で深い谷や、灼熱の荒野に浮かぶ大きな水溜り。川が流れるはずも、雨が降るはずもないこの土地に、なぜ? ……不思議なことに、どんな地理学者が調べてみても、その謎は解けません。ここを旅するだれもが、次に何が起こるのかわからない恐怖で身体が固まり、立ちすくんでしまうのです。

日常がトリックアート化していく

駅や商業施設の中を歩いていると、たまに「地面がデコボコしているのかな?」と思うような、幾何学模様のタイルが張られた床に出会うことがありませんか?

このように、目や耳に異常がないにもかかわらず、実際とは異なる見え方、聞こえ方をしてしまう現象のことを「錯覚」と呼びます。

たとえば、山道で車を運転していると、車体が自分の思わぬ方向に寄ってしまい、慌てることってありますよね。その原因も、左カーブでは左側車線が広く、右カーブでは右側車線が広く見える、という錯覚によるものです。そのため、広く見えるカーブの内側へ自然と寄ってしまい、次のカーブでの切り返しが思っていた以上に大きくなり、慌ててしまうというわけです。

そう、目の前に存在している世界と、人が知覚する世界はそもそも同じではないのです。

(旅人の声)

これも「錯覚」でしょうか……?

最近、見ているものの大きさがよくわからなくなるという出来事がありました。

電車に乗っていたときのことです。目的地に着いたので降りようとしたら、電車とホームの間がものすごく広く感じ、まるで深い深い谷底まで続いているかのような、大きな隙間があったのです。

それなのに周りの人はみな、そこに隙間なんてないかのように、すいすい降りていきます。

わたしは怖くて怖くて仕方なかったのですが、扉が閉まってしまいそうだったので、「えいっ!」と飛び降りました。もう、心臓はバクバクです。

後から考えれば、あの深い谷のように見えた暗闇は、ただの電車とホームの隙間だったのですが……。今まではそんな隙間、ちょっと気をつければ降りられたのに。なんだかその日は、とても大きな隙間に感じたのです。

なんとも不思議なわたしの視界なのですが、電車の乗り降りは、ちょっとしたコツをつかみました。「ぴょ〜んっ!」という掛け声を心の中で叫んで、その声に合わせて降りるんです(笑)。「そんなことで?」と思うかもしれませんが、けっこう効き目があるんですよ。

慎重に降りようとすると、あまりにも隙間に集中するためか、どんどんその幅が気になってしまうのですが、こうやって「ぴょ〜んっ!」と降りると、意外にスムーズに身体が動くのです。

こんな、思いもよらない工夫ができるなんて。もっといろんな見え方を攻略していけるといいな、と思っています。

電車とホームのわずかな隙間が
深い谷のように見えた理由

人は、目から入ってくる二次元の見え方から、モノの大きさや影の落ち方、モノの動きといった、距離や深さに関係する情報を読み取っています。そして、その情報をもとに、脳の中で三次元の世界をつくりあげ、それが何かを認知しています。

たとえば、「自分の位置から大きく見える→だからこれは近くにある」「自分の位置から小さく見える→だからあれは遠くにある」というように。

「電車とホームの隙間が深い谷のように見えた」のは、目から入ってきた二次元情報を、脳が三次元情報に変換するところになんらかのトラブルを抱えているためと考えられます。目の前にある実際の距離や深さを正しく認識することが困難になっているため、とてつもなく大きな隙間に見えてしまっているのでしょう。

(旅人の声)

それから少し歩くと、商店街に着きました。しかし、この商店街もどこかがおかしいのです。

歩くたびに歩道の地面がぐねぐねと動くのです。もう、いつつまずいてしまうのかと、ビクビクしながら歩きました。しかし、立ち止まってよくよく足元を見ると、ただ白と黒のタイルが交互に並んでいただけでした。

室内でも似たような出来事がありました。この間、ホテルに泊まったときのことです。

そこは、最近できたばかりのホテルで、内装は白を基調にしたとってもきれいな建物だったのですが、床も白、壁も扉も白、おまけに家具も白っぽいもので揃えられていました。

わたしはどこまでが床で、どこに壁があるのかわからなくなって、何度も壁にぶつかりそうになりました。トイレに入ったときなんて、真っ白な個室に真っ白の便器。もう、どこに座ればいいのかさえわかりません。

さらに、エントランスはピカピカの大理石だったのですが、わたしには一面が水溜りのように感じられて、滑って転ばないかとヒヤヒヤしました。

やっとの思いでドアの前に着いたら、今度は足元に大きな落とし穴が……!怖がるわたしに、「どうしたの? 玄関マットがどうかした?」と友人が一言。「え? これってマットなの? どう見ても穴が開いているけど……」と、わたしの頭の中は混乱する一方でした。

玄関マットが
落とし穴に見える理由

人は、何か行動するときに、次のようなプロセスを踏んでいます。*

①目や手などで外界の情報を「知覚」して
②その情報が何であるか認知し、過去の記憶や知識・経験に基づいて「判断」して
③判断にしたがって「行動」する

この「知覚」「判断」「行動」というプロセスを何度も繰り返すことによって、脳に経験・知識が蓄積されます。そして、情報が蓄積されることで、わたしたちはより円滑に日常生活を送れるようになります。

このプロセス①と②の片方、もしくは両方にトラブルが起こることで、日常生活にさまざまな困りごとが起きていると考えられます。

* 池田文人「視覚情報の処理と利用:5.錯視とその情報処理モデル」『情報処理』Vol.50 No.1 2009年1月 

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「玄関マットだと言われてもどうしても穴に見える」というこのエピソードは、目からの情報を知覚する過程で、玄関マットが穴に見えるという、プロセス①の視覚情報の処理トラブルが起こっています。目から入ってきた二次元情報をうまく三次元情報に変換できず、穴に見えてしまっているわけです。

知覚(プロセス①)の段階でトラブルが起こっても、判断(プロセス②)の段階でその情報を確かめられれば、特に問題はありません。多くの人は一瞬穴のように見えても、「玄関に穴があるはずがない」というように、これまでの知識・経験などをもとに判断できます。

しかし、認知症のある方は、頼りにすべきその知識・経験などの記憶が曖昧になっているために、どうしても穴に見えてしまうのだと考えられます。

次ページには、このストーリー内にアイコンの形で登場した「心身機能障害」と、その障害が原因と考えられる生活の困りごとを一覧にしてまとめています。ご自身や家族、周囲の方の困りごと・生活環境を振り返る参考にしてみてください。

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