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トイレットペーパーを何度も買ってきてしまう理由_「目」と「記憶」には、 驚くほど密接な関係がある

認知症のある方の心と身体には、どんな問題が起きているのでしょうか? いざこういうことを調べてみても、見つかる情報は、どれも医療従事者介護者視点で説明したものばかり。肝心の「ご本人」の視点から、その気持ちや困りごとがまとめられた情報が、ほとんど見つからないのです。

この大切な情報を、多くの人に伝えたいと思い、書籍『認知症世界の歩き方』から1話ずつ、全文公開いたします。興味を持っていただけましたら、お近くの書店やAmazonでお買い求めいただけるとうれしいです。

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霧に消える絶景を脳裏に焼き付けられるか!

認知症世界。この世界には、深い霧と吹雪が、視界とともにその記憶まで真っ白に消し去ってしまう、幻の渓谷があるのです。

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旅の最初に行き着いたところ、そこは世界遺産・ホワイトアウト渓谷。晴れた日には、季節折々の絶景が広がります。しかし、この地の天候は不安定です。ひとたび天気が崩れれば、あっという間に濃い霧がかかり、横殴りの雪が吹き荒れ、目の前が真っ白に染まります。それと同時に、目に焼き付けたはずの絶景の記憶も、跡形もなく消え去ってしまうというのです。
……それが、この地が人々に「幻の渓谷」と呼ばれる理由なのです。

「目」と「記憶」には、
驚くほど密接な関係がある

わたしたちは想像以上に、目に頼って生きています。

高級ブランドの瓶に入っていれば、安物のワインも最上級の味に変わります。やらなければならないことも、どこかにメモしておかなければ、ついつい忘れてしまいます。お気に入りの服も一度クローゼットの奥にしまうと、その存在を忘れて長年着そびれてしまうなんてことも。

視覚と人の認知、そして記憶には、密接な関係があるのです。戸棚、扉、冷蔵庫……実は、小さなホワイトアウト渓谷は、日常の隅々に存在します。

(旅人の声)

その日は、買い物中にトイレットペーパーが切れていたことを思い出し、購入して帰ったのですが……。

家に戻ったところ、トイレの上にある収納棚にトイレットペーパーがぎっしり!「あれ?」「こんなにたくさんあったの?」「だれがいつ買ったんだろう……?」と、わたしにはまったく身に覚えがありません。

「夫が買ったのだ」と思い文句を言うと、そんなことはなく、なんと「先週もその前の週もわたしがトイレットペーパーを買っていた」と言うのです。信じられないことに、どうも本当にわたしが勘違いをして、何度も買ってしまっていたようなのです。

棚の戸を開けるたびに大量のトイレットペーパーを目にしてはいるのですが、戸を閉じて視界から消えると、記憶からも存在が消えてしまうようです。

トイレットペーパーを
何度も買ってきてしまう理由

すでに買ってあるものを何度も買ってきてしまうという行為には、さまざまな理由があるようです。

1つ目は、単純に自分で買ったという行為を忘れてしまう(記銘・保持・想起できない)という記憶の問題です。(Story1「ミステリーバス」)

2つ目は、昔からの定期的な習慣になっていることや、特別な思い入れ・愛着(逆に苦労)があることの場合、その行為をしよう・しなければならないという強い思いが頻繁に想起されてしまうということがあるようです。「トイレットペーパーが切れてすごく困ったことがある」という経験から、その記憶がたびたび呼び戻されてしまうというのがその一例です。(P.044「アルキタイヒルズ」)

3つ目が、今回のお話の中心である、視覚情報への依存によるものです。認知機能の障害により、「目の前に見えないもの=存在しないもの」とされることがあります。

棚に積まれたトイレットペーパーを見ているときは「十分ある」と思えても、扉を閉めた途端にその存在が記憶から消えてなくなってしまうのです。本人にとっては「無いもの」になっているわけですから、何度も購入しているという感覚はありません。いつも通り、なくなったものを買い足しているだけなのです。

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(旅人の声)

似たような出来事は、事務を担当している職場でも起きました。

昨日までのデータ入力作業の続きをしようと、パソコンを開きました。しかし、使っていたファイルが見当たりません。デスクトップにいくつかフォルダは並んでいるのですが、その中に何が入っているか想像することがまったくできないのです。そんなことは初めてで、わたしは青くなってしまいました。片っ端からすべてのフォルダを開いて、データを見て、ようやく目的のファイルを見つけることができました。しかし、今度は紙の資料を見てパソコンにデータを入力しようとすると、確認したばかりの数値が思い出せません。何度も資料と入力画面を目で行き来しないと、どうにも作業が進みません。

その後、なんとか1日の仕事を終えて、買い物をして帰宅しました。そして、冷蔵庫に買ったばかりのお肉や野菜をしまって、扉を閉じたそのときです。不思議なことに、一瞬にして、今、自分が冷蔵庫に何を入れたのか、何が入っているのかわからなくなってしまったのです。今この手で、食材をしまったはずなのに……。仕方なく、もう一度冷蔵庫を開けて、夕食を作るために何があるのかを確かめなければなりませんでした。

実は最近ほかにも、扉を開けないと何があるのかわからずに困ることが何度もありました。

夜、トイレに行きたくなって目を覚まし、廊下を歩いていたのですが、トイレの場所がどこかわからなくなってしまいました。見慣れた場所なのに、どの扉を見ても「この扉の向こう側には何があるのか」がイメージできなかったのです。1つずつバタバタと扉を開けては確かめ、ようやくトイレにたどり着きました。

料理中は、食器を取り出すのもひと苦労です。戸が閉まった食器棚を見ても、どこにどんな食器が入っているのか見当がつかないからです。食事のたびにすべての戸棚を開け閉めしなければならず、最終的には、いつも水切りかごに出ている同じ食器ばかりを使うようになっていました。しかし、この悩みは、戸棚をガラス張りで中が見えるものに新調したら、不思議とすっかりなくなったのです。

買い物のときも、「何を買う必要があったかな?」と思い出すことをやめ、日頃から家にあるものを使い切ったときにすぐにメモして「ないものリスト」を作ることにしました。台所にメモ用紙を置いておき、調味料がなくなったときにはすぐにメモします。買い物に行くときには、必ずそのリストを持っていきます。すると、以前のように同じものを買ってしまうことも少なくなりました。

冷蔵庫に何が入っているのか
わからなくなる理由

・パソコンのフォルダ内のファイルがイメージできない
・閉めた途端に冷蔵庫の中身がわからなくなる
・扉の向こうが何の部屋かわからない
・食器棚の中に何が入っているか想像できない

実は、これらはすべて同じ理由によるものです。

フォルダも、冷蔵庫も、扉も食器棚も、開ければ中にあるものを認識できますが、閉じて見えなくなった途端に、存在しないものになってしまうのです。

もちろん、もう一度開ければ、そこに存在するものとして認識されます。ですから、認知症とともに生きる世界では、視界を遮断しない生活空間づくりが大切です。

次ページには、このストーリー内にアイコンの形で登場した「心身機能障害」と、その障害が原因と考えられる生活の困りごとを一覧にしてまとめています。ご自身や家族、周囲の方の困りごと・生活環境を振り返る参考にしてみてください。

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10月17日、出版記念イベントを
開催します。

認知症当事者の声を聞ける貴重な機会です。ぜひ。


出版業界を新しくしたい。もっと良くしたい。読者と、書店と、友達のような出版社でありたい。「本ができること」を増やしたい。いただいたサポートは、そのためにできることに活用させていただきます。