「お風呂に入りたくない」 のは「お風呂を嫌いになったから」ではない
認知症のある方の心と身体には、どんな問題が起きているのでしょうか? いざこういうことを調べてみても、見つかる情報は、どれも医療従事者や介護者視点で説明したものばかり。肝心の「ご本人」の視点から、その気持ちや困りごとがまとめられた情報が、ほとんど見つからないのです。
この大切な情報を、多くの人に伝えたいと思い、書籍『認知症世界の歩き方』から1話ずつ、全文公開いたします。興味を持っていただけましたら、お近くの書店やAmazonでお買い求めいただけるとうれしいです。
熱湯ヌルヌル冷水ビリビリ…あなたの運が試される?
認知症世界。この世界には、入浴するたびに温度や匂い・肌触りなどが変わる不思議な湯が湧き出る、ドッキリ温泉があるのです。
この世界でも、温泉は人気の旅行スポット。七変化温泉のお湯は、あるときはしっとり適温で、心も身体もリラックス。あるときはピリリと炭酸質で刺激的、気分もすっきり。旅人たちは、訪れるたびに変化する泉質を楽しみに、多種多彩なサプライズを味わいながら、旅の疲れを癒しています。
ただ、時にはつま先を入れた途端に、思わず飛び跳ねてしまうような熱湯になっていることも。しかし、湧き出る泉質が変化するなんて、本当にあるのでしょうか……?
お風呂は、
あらゆる感覚のダイバーシティ
熱い、冷たい、しっとり、ピリリ……。七変化温泉の泉質は、本当に訪れるたびに変化しているのでしょうか? 答えは「NO」です。
変化しているのは、実は、お風呂に入る人間の「身体の感覚」の方なのです。
季節や朝晩などの時間帯、そして気分や体調によって、自分の周囲を取り巻く環境に対する感じ方、見え方が変わるのは、だれにとってもよくあることです。
気が乗らない日の朝は、視界がよどんで見えます。親しい人との楽しい食事はなんでも美味しく感じられます。この部屋臭いなあと一度思ったら、ささいな匂いも気になり、どんどん臭く感じてしまいます。
そしてたいていの場合、こうした感覚は自分だけにしかわからず、周りに伝えるのはすごく難しいことです。
(旅人の声)
わたしが感じている感覚を周りの人には理解してもらえない、と悩んでいることがあります。それはお風呂です。
あるとき、自宅で入浴中に不思議な体験をしました。いつも通り39度にセットして、お風呂に湯をはったのですが、入ってみると、なんだかいつもと違う触感なのです。
お湯がどうもヌルヌルします。入浴剤は入れていません。それなのに、何かが身体にまとわりつくようで、とっても気持ちが悪いのです。仕方がないので早めにお風呂から出て、シャワーで身体を流すことにしました。
「お風呂掃除のときの洗剤でも残っていたのかしら?」と思い、直前に入った娘に聞いても、「そんな感じしなかったけど?」と不思議そうに言います。
翌日のお風呂は、わたしもそんな感じはなかったのですが、また違う日に同じようなヌルヌルを感じたり、またある日は熱すぎたり、逆に冷たいと感じることもあって、「なんか変だなあ」と思っています。お風呂は大好きだったのですが、こんなことが続いてからは、入ることが少し億劫に感じています。
近頃では、なんとか以前のようにお風呂を楽しめないかと、自分の体調に合わせてお風呂に入るタイミングや方法を変えることにしました。長年、夜にお風呂に入るのが習慣でしたが、「なにも気持ち悪い思いや熱さを我慢してまで、入る必要はないじゃないか」と。
夜、お風呂に入ったときに気持ちいいと感じなければ、すぐに出て、次の日の朝にお風呂に入ったり、シャワーだけで済ませたりするように切り替えました。
「お風呂に入りたくない」
と嫌がる理由
認知症のある方がお風呂に入るのを嫌がるというのは、介護をしている方からよく聞く話です。
「介護への抵抗」と、ときに感じられるかもしれないその方の「お風呂に入りたくない」の背景には、実にいろいろな理由があるのです。
身体感覚のトラブルで極度に熱く感じる、浴槽に入るとぬるっとした不快な感覚があるという方もいます。空間認識や身体機能などのトラブルで服の着脱が困難(STORY10「服ノ袖トンネル」)、その介助を受けたくないという思いを持っているのかもしれません。「自分の中ではお風呂に入ったばかりだ」という時間感覚のズレ(STORY9「トキシラズ宮殿」)や記憶の取り違え(STORY3「アルキタイヒルズ」)の場合もあります。
このように、お風呂という1つのシーンをとっても、1人ひとり異なる心身機能の障害、その組み合わせによって困りごとが生じているため、周囲から理解されづらいことも暮らしにくさにつながっています。
(旅人の声)
感覚の変化は、お風呂のときだけではありませんでした。
休日の朝、ゆっくりドリップコーヒーを淹れて立ち込めるコーヒーの香りに包まれるのがわたしの楽しみの1つでしたが、今ではコーヒーの匂いを感じることができなくなりました。
前は、コーヒー豆にも凝っていろんな豆を飲み比べたりもしていましたが、最近はどのコーヒーを飲んでも何も味がしません。
あと朝食でよく失敗してしまうのは、トーストです。
朝起きて、寝ぼけまなこで食パンをトースターにセットして、顔を洗ったり、着替えたり、身支度をしながらでも、美味しそうな香ばしい匂いがしてくると、「あ、そろそろパンが焼けたかな?」と気づくことができますよね。
ですが、今は匂いを感じることが難しくなったため、鼻で焼け具合を感じることができないのです。黒焦げになっていても匂いがしないので、煙が視界に入るまではまったく気がつきません。
また、煮物をつくるときには味見をするのですが、「まだ味が染みてないな」と思ってしまい、つい煮すぎてしまったり、醤油やみりんを加えすぎたりして、味つけが変になってしまうことがあります。
味覚や嗅覚が
曖昧になる理由
舌や鼻を通じて、味や匂いを感じとり、それが脳へと伝わることで、人は「甘い」「酸っぱい」「いい匂い」などと認識します。
こうした感覚器が障害を抱えると、味や匂いに鈍感になったり、反対に過敏に感じたりしてしまうようになります。ときには、この感覚器の誤作動により、通常では考えられない味や匂いに感じることもあるようです。
ふわっと潮の匂いを感じると海水浴の思い出が頭をよぎったり、温かい味噌汁を飲むと家族の顔が浮かんだりすることってありますよね。味覚や嗅覚は、記憶とも密接に関わっています。
味覚・嗅覚と記憶との回路が問題を抱えることで、自分の中の「美味しい」記憶の味を再現することが難しくなることもあるようです。
(旅人の声)
ある夏の日に、友人とカフェで食事をしていたときのことです。
お店に入った途端、ものすごく室内が寒く感じて、急いでかばんの中のカーディガンを羽織りました。友人に「なんか、このお店冷房が効きすぎているね」と言うと、友人は「そう? わたしには暑いくらいだけど」と、額の汗をぬぐっています。
こんなふうに、みんなが「暑い」と言っているときに自分だけ寒さに震えていたり、反対に周りの人が「寒い」と言っているのに、わたしだけ暑く感じて汗をかいていることがたびたびあります。
ですから今は、暑くても寒くても、すぐに脱ぎ着ができる服を着たり、かばんの中に上着やストールを持ち歩くようにしました。
そうそう、友人たちとテニスをしていたときなんて、ちょっと熱中症気味になってしまいました。
ちゃんと水筒は持っていたのですが、「水を飲みたい」とか「喉が渇いた」という感覚がなくて、いつの間にか水分補給をしないまま、炎天下で運動し続けてしまったのです。目の前がくらくらして、初めて脱水状態になっていることに気づきました。
友人たちがすごく心配していたので、「最近、喉が渇いたって感じないんだよね」と言ったところ、その次からは、「そろそろ休憩して水分をとろう」と積極的に声をかけてくれるようになりました。
自分の感じ方が変化するということを自分で理解してからは、そのつど柔軟に対応できるようになりましたし、周囲の人にも伝えておくと、さりげなく配慮してもらえるのでさらに楽になり、困りごとはずいぶん減りました。
でも、出かけようと家を出て車に乗った途端、急にトイレに行きたくなってしまったときは、少し困ってしまいました。
ほんの数分前に家を出たばかりだったので、家族には「なんでさっきトイレに行っておかなかったの!」と言われてしまったのですが、数分前まではまったく尿意を感じていなかったのです。
トイレを思いがけず
失敗してしまう理由
トイレに間に合わないのも、身体の中の感覚が鈍感になっていることから起こることがあるようです。
普段は意識しませんが、人は空腹感や喉の渇き、尿意などを感じる「内臓感覚」を持っています。この感覚がうまく働かないことによって、「そろそろトイレに行きたいかもしれない」という微妙な変化が感じとれず、急に尿意がやってきてしまうのです。水分補給を忘れて熱中症になってしまうのも同じ理由です。
また、トイレを失敗する原因と考えられるものは、ほかにもたくさんあって、そのどれが当てはまるのかは、人によって異なります。
いつトイレに行ったのかを忘れてしまう(STORY1「ミステリーバス」)、早めにトイレに行くことが難しい(STORY7「七変化温泉」)、扉の向こうがイメージできず場所がわからずに間に合わない(STORY2「ホワイトアウト渓谷」)、家やショッピングモールなどの空間の中でトイレの場所がわからない、サインが見つけられない(STORY11「二次元銀座商店街」)、便器と床が白くて便器の場所がわからない(STORY6「サッカク砂漠」)。
原因によって、とることのできる対策も変わってきます。
次ページには、このストーリー内にアイコンの形で登場した「心身機能障害」と、その障害が原因と考えられる生活の困りごとを一覧にしてまとめています。ご自身や家族、周囲の方の困りごと・生活環境を振り返る参考にしてみてください。