編集者とは、大好きな人の力になれる最高の職業である
2021年の3月にライツ社から出版された『マイノリティデザイン 弱さを生かせる社会をつくろう』が、いまもっとも読まれるべきビジネス書を決める「読者が選ぶビジネス書グランプリ2022」にノミネートされました。
この賞は、一般読者の投票で決まるものです。『マイノリティデザイン』にかけた編集者と著者の10年の歴史を下記に記しますので、共感いただける方は応援いただけると幸いです。よろしくお願いいたします。
著者の澤田智洋さんは、大手広告会社に勤めるコピーライターでありながら既存の広告をつくるのをやめ、「ゆるスポーツ」という新しいスポーツをつくったり、「東京パラリンピック閉会式」のコンセプトと企画を担ったりしている方です。いろいろな顔を持つ澤田さんですが、すべての仕事に貫かれている姿勢こそが、ひとりが抱える弱さを世界を良くするアイデアに変える「マイノリティデザイン」という言葉です。
10年前、「みなさんがつくられた本が好きです」というメールから始まった
ぼくと澤田さんの出会いは、2011年のことでした。前職で勤めていた出版社に一通のメールが来ました。「みなさんがつくられたこの本が大好きです。この本を広めるために、わたしにできることがあればいつでもご連絡ください」。
ちょうど澤田さんが、既存の広告仕事にむなしさを抱えはじめていた頃、「自分が広告したい企業を自分で選ぼう!」と思い立って好きな会社に連絡をしているという時期に連絡をくれたのです。ぼくがまだ25歳、澤田さんが29歳の頃のことでした。
「大手広告会社の人からこんな小さな出版社に連絡が来るなんて」「しかも自分たちがつくった本を好きだって」舞い上がったぼくはすぐに返信をして、Facebookでやりとりするようになりました。
その頃のぼくは、出す本出す本まったく売れず、自信をなくし、もう本をつくることすら怖くなっている時期でした。好きな本ではなく売れそう本(でも売れない)をつくっては大量の返本を繰り返す悪循環。そんなとき、澤田さんから来た1通のメールは光でした。
お会いするたびに刺激的な話をしてくださり、ぼくの仕事にキャッチコピーまでつけてくれたり(そのコピーはぼくの本づくりの指針となり、ライツ社の代表挨拶にも載っています)。いつしか澤田さんはぼくの中で、いちばん尊敬する社会人という存在になっていました。いつかこの人の本を出せたらいいなと、この頃から漠然と思っていました。
出会いから2年が経ち、ぼくも編集者として成長し、やっと重版できる本をつくれるくらいにはなっていました。澤田さんはというと、ご結婚され、2013年の1月にはお子さんが生まれました。
しかし、このやりとりの直後、澤田さんの状況が一変します。お子さんが生まれてから3ヶ月後、目に異常が見つかり全盲であることがわかったのです。
東京でお茶していたときに、その事実を教えてもらいました。澤田さんの話を聞いて、一言目に何と答えたかは覚えていません。
いちばんイヤなはずの悲しい顔をしてしまったかもしれないし、変に笑ってしまったのかもしれない。ただ、とにかく明るい話がしたいと思って、自分がしてきた経験を絞り出しながらたくさんしゃべったことは覚えています。
幼稚園の頃、手足が不自由な子がクラスにいて、ずっとお世話をしていたら「お手伝いしすぎ!」と怒られてよくわからない気持ちになったこと。あとになってその言葉の意味がわかったこと。大学生の頃、障害のある方がショートスティに来られる福祉施設でずっとアルバイトをしていたこと。そこに来られる方との毎週1泊2日の交流がとても楽しかったし心に残っていること。就職してからも、その経験から障害のある方が地元企業に就職するための支援冊子をつくったこと……。
澤田さんは、ぼくの一方的な話をなぜかポジティブに受け止めてださっていたのですが、その理由を知ったのは『マイノリティデザイン』の取材をはじめてからのことでした。
「ぼくらが生きてたのと、そうじゃないのとでは違った未来をつくろう」と約束した
『マイノリティデザイン』の第1章には、「お子さんに障害があることがわかってから障害当事者200人に会いにいく日々が始まった」と言ったことが書かれてあります。ぼくと話をしたのも、ちょうどその時期だったのです。
実はその頃、ぼくたちは澤田さんのそれまでの仕事を「アンサーシップ(仮)」という本にしようとしていましたが、企画は一旦ストップ。(この当時書いてくださった原稿が『マイノリティデザイン』の第5章になっています)一緒に「世界一明るい視覚障害」と言われる成澤俊輔さんにお会いしに行ったこともありました。二人とも、とても若い。右が成澤さんです。
お子さんのために、ご自身のために新しい道を切り開こうとしている澤田さんの姿を見ながら、いつかなにか力になることができればなと、思っていました。ゆるスポーツの前身でもある、澤田さんが海外から輸入したバブルサッカーを会社でやってみたり、澤田さんが手探りの時期に始めたホワイトユーモアという活動のネタを考えたり、澤田さんが理事を務める障害攻略課のロゴはRPGのドット絵みたいな感じがいいんじゃないか、みたいな話もしました。
そして、約束しました。「ぼくらが生きてたのと、そうじゃないのとでは違った未来をつくろう」と。それはまだ「ゆるスポーツ」や「マイノリティデザイン」という言葉が生まれるずっとずっと前のことでした。
でも、障害や福祉というテーマで、売れる本をつくれるイメージがわかなかった
それから、澤田さんはブラインドサッカーに「見えない。そんだけ。」という強烈なキャッチコピーをつけたことをきっかけに、「広告」という世界から「福祉」という世界へご自身の活躍の舞台を移し、邁進していきます。
その過程をリアルタイムで共有してもらいながら、自分にできることを探していました。出版社に勤めるぼくにできることといえば、澤田さんの本をつくることです。ただ、それはわかってはいたのですが、前職時代に実現することはありませんでした。「障害」や「福祉」というテーマで、自分が売れる本をつくれるイメージがわかなかったからです。会社員としても、自分が売れるイメージがわかない本を上司に提案することはできませんでした。
この時期はいくつもの企画を提案したりしてもらったりしながらも、形にできず、いたずらに澤田さんの時間を奪っていただけのような気がします。
人生で、ひとりの人が書ける本の数は限られています。もし、その本が売れなかった場合、澤田さんの思いや活動を知ってもらう機会を逆に減らすことになってしまいます。力になるどころか邪魔になってしまうかもしれない。自信がありませんでした。
そうして月日は流れ、2015年に澤田さんは「世界ゆるスポーツ協会」を設立。ぼくは2016年に会社を辞めて独立する決意をします。
「大塚さんなら大丈夫です」と言ってくれた期待に応えたくて
会社を辞めると決めたとき相談したのは2人だけで、そのうちの1人が澤田さんでした。
いろんな事情があって、会社に残るか独立するかという決断を迫られることになったぼくは、東京に向かいました。その日、考えすぎて知恵熱が出たのかなんなのかフラフラで、新幹線に乗って、やっとのことで見たこともない高い高いオフィスビルに着いて、玄関にあったベンチに寝転んで、澤田さんが打ち合わせを終えるのを待っていたのを覚えています。
振り返ってみると40.6℃の熱が出ていたようです。
「独立をしようと思っています。ぼくは大丈夫でしょうか?」ぼくのなんとも答えにくい質問に、澤田さんは「大塚さんなら大丈夫です」と言ってくれました。「新幹線で少し休めますように」というメッセージを電車で見て、ぼくはなぜか安心して、ぐっすりと眠りました。それから2ヶ月半後に、ぼくはライツ社を設立しました。
いくつもの企画が浮かんでは消えていった
澤田さんの期待に応えたくて、早くちゃんとした出版社に編集者になりたくて。でも1期目は気合が空回って大赤字で、でもその間もちょくちょく連絡をとらせてもらいながら、どんな本がつくれるか考えて。いくつもの企画が浮かんでは消えてきました。
そして2期目、3期目と会社が軌道に乗りはじめてついに4期目、改めて澤田さんに声をかけました。
クリエイティビティは大切な人のために(仮)
月日が経つのは早く、澤田さんのお子さんは6歳になり、ぼくにも3人の子どもが生まれていました。
その頃には、澤田さんはどんどん活躍の場を広げていました。ユナイテッドアローズと協働した「041FASHION」、寝たきりの人が視覚障害の目に、視覚障害者が寝たきりの人の足になるロボット「NIN_NIN」、福祉アイテムである義足をファッションアイテムに再解釈した「切断ヴィーナスショー」、そして老若男女男女健障だれでも楽しい「ゆるスポーツ」。そのすべてが、澤田さんが自分の大切な人のために生み出したプロジェクトでした。
そして2019年6月7日、田町のサンマルクカフェでライツ社として初めて正式に、澤田さんに本の出版を依頼しました。
独立して、たくさんの失敗や成功を経験して成長したこと。ベストセラーと言われる本を出せたり、『売上を、減らそう。』という渾身のビジネス書をつくることができて、編集者としての自信もついたこと。澤田さんの本だけは、他社からではなくライツ社か出したいと強く思っていること。澤田さんの仕事に勇気をもらっているのは、障害当事者の方だけでもぼくだけでもないはず、ということ。
最初に決まった本の仮タイトルは「クリエイティビティは大切な人のために」でした。今あらゆる業種で「クリエイター」と呼ばれる人が、いやほとんどの働く人が、むなしさを抱えながら働いている。自分の仕事が世界をよくしている気がしない、と。そんな気持ちを救う本をつくりたいと依頼しました。
1冊の本を出版するまでに10年かかった
それからライターの大矢さんとともに半年かけて取材を重ね、これまでのインタビュー記事をすべて掘り返し、講演音源をすべて文字に起こし、執筆、編集、加筆修正でさらに1年。2021年3月に『マイノリティデザイン』というタイトルで、本は出版されました。
制作の途中、人間ドッグを受けたぼくの目に網膜剥離が見つかりました。「もし目が見えなくなったらどうしよう、仕事できないな、会社続けられないな、家族養えないな……。」幸いにも即手術でことなきを得ましたが、しばらくの間、いろんなことを考えたのを覚えています。
発売後、澤田さんと『マイノリティデザイン』はあらゆるメディアに取り上げられ、5刷2万部を突破。
「この本には希望とユーモアが詰まっている」といった読者からの感想ハガキはもちろんのこと、Twitterで「この商品、まさにマイノリティデザインってやつだよな」というようなセリフを見るたびに、本だけでなく、概念そのものが社会ににじみはじめていることがとてもうれしかったです。そして7月にはNHKあさイチで、1時間に渡って澤田さんのロングインタビューが放送されるまでなりました。
「クリエイティビティは大切な人のために」という仮タイトルから『マイノリティデザイン』というタイトルに決まるまでには、たくさんの話し合いがありました。
デザインに入る直前の打ち合わせで、澤田さんに聞きました。「澤田さんのこれまでの仕事を一言で言うとなんですかね?」澤田さんは少し考えて言いました。「……実は、これいままで前には出してこなかったんですけど、この言葉がぼくの人生のコンセプトなんです」そして、ノートパソコンをくるっと回して、1枚のスライドをぼくに見せてくれました。
そこにあった言葉こそが、『マイノリティデザイン』だったのです。その瞬間、ぼくの腹は決まりました。
このタイトルにする懸念もありました。聞いたこともない言葉。Google検索に1つも引っかからない言葉。「マイノリティ」という言葉を使う繊細さ。誤解を生む可能性もあるデザインという言葉への違和感。
でも、澤田さんは言っていました。「マジョリティとマイノリティの間に明確な境界はないと思うんです。だれにもかならず、それぞれが抱えるマイノリティ性がある」と。そして、「その弱さは、世界をより良い場所にする起点になるものと知ったとき、ぼくは実際に救われたんです」と。そして「ビジネスの世界でよく言われている『課題不足』なんてことあり得ないです。社会にはぼくらが担ぐべき神輿があふれている」と。
お子さんの目が全盲であることがわかって、「どうやって育てたらいいのかわからない」「いくら自分が美しいCMを作っても自分の息子は見れないじゃん」と絶望して、それでも障害当事者200人に会いに行って、ライターやストローが生まれた理由を聞いて、「社会的弱者は発明の母」だと知って前を向いて、「見えない。そんだけ。」というキャッチコピーをつくって、「息子と公園に行っても太鼓を叩くしかできないじゃん」と世のなかに逆ギレして、でもそれをきっかけに自分のなかに「スポーツ弱者」というマイノリティ性を知って、運動音痴でも老若男女健障だれでも楽しめる「ゆるスポーツ」を自らの手でつくって。あらゆる福祉領域の課題に得意のユーモアで光を当てて。
『マイノリティデザイン』という言葉にたどりつくまでに、澤田さんにどれほどの喜怒哀楽があったか。わかりません。一生わからないと思います。でも、その姿を友人として、編集者として、ずっと見てきました。そして、澤田さんの本だからこそつけれるタイトルだとぼくは思ったのです。
澤田さんは、この本の「おわりに」にこんな文章を書かれています。
編集者とは、大好きな人の力になれる最高の職業である
澤田さんと出会ったのは2011年、本が出たのは2021年。この本をつくるまでに10年がかかりました。でも、10年が必要だったんだと思います。
『マイノリティデザイン』が出て約半年後、東京オリンピック・パラリンピックが開催され、その最後を締めくくるパラリンピックの閉会式のコンセプトと企画を澤田さんが担当されました。
ぜひ見てください。いろいろあった東京オリンピック・パラリンピックですが、キャスターの方が思わず「みんなスゲーかっこいい」と言ってしまう映像です。澤田さんがいなければ、「マイノリティデザイン」という言葉が生まれなければ、この光景はなかったと思います。
そして、この閉会式こそ、「澤田さんが生きてたのと、そうじゃないのとでは違った未来」そのものだったのではないでしょうか。
閉会式のコンセプトは「調和する不協和音」でした。あの日、あ、これはぜったい澤田さんが考えたやつだと思い、「いまテレビで見ています」と澤田さんにメッセージを送ると、すぐに「多様性って綺麗事じゃないので、ザラッとした言葉にしたかったのです笑」と、澤田さんらしいとても軽やかな返事がありました。
こんな未来を見るために(もちろん、だれもが生きやすい世界になるまではまだまだ前途多難だけれど)ぼくも少しは力になれたのかな。そして、思ったのです。
「ああ、この本をつくるために、ぼくは編集者になったんだ」と。「編集者とは、大好きな人の力になれる最高の職業である」と。
<さいごに>
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