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【はじめに全文公開】明石市長・泉房穂「日本の政治をあきらめていたすべての人へ」

1月にライツ社から出版された『社会の変え方 日本の政治をあきらめていたすべての人へ』が、いまもっとも読まれるべきビジネス書を決める「読者が選ぶビジネス書グランプリ2024」の【政治経済部門】にノミネートされました。

この賞は、一般読者の投票で決まるものです。本書の「はじめに」から「序章」をお読みいただき、共感してくださった方はぜひ応援いただけると幸いです。その1票こそが、社会を変えると信じて。よろしくお願いいたします。

「冷たい社会」への復讐を誓ったのは、小学生のころのことだ。

こんな冷たい社会の中で、生きていたくはない。このまち、この社会を少しはやさしくしてから死んでいきたい。

子ども心に自分自身に対して、固くそう誓った。以来、怒りの炎を燃やし続けながら生きてきたような気がする。

周りの誰かが悪いとは、ちっとも思わなかった。ともだちも先生も近所の人たちも、誰も悪い人じゃなかったから。でも、世の中はやさしくなかった。両親は一生懸命に働き続けたが、生活は楽にはならなかった。弟は本当にいいやつなのに、障害があるというだけでノケモノにされた。

誰かじゃなくって、何かが間違っている。世の中の何かが間違っているに違いない。その間違いをなんとかしたい。そのために賢くなりたい。強くなりたい。そして、やさしくなりたい。そう願い続けて生きてきた。

「人は生まれながらにして平等」なんて言うが、それは嘘っぱちだ。世の中は、生まれる前から、あまりに不平等だ。そして、その不平等はさらに広がっている。「努力してがんばれば報われる」なんて言ったりもするが、それもまた嘘っぱちだ。実際は、報われない努力のほうがはるかに多い。

でも、いやだからこそ、せめて平等な機会のある社会を目指そうと思った。だからこそ、せめて自分だけでも、報われない努力を愛する政治家になろうと思った。

あれから50年もの月日が流れ、私も今年、明石市長3期12年の任期満了を迎える。

自分なりには精一杯がんばってきたが、しょせん1人の人間にできることは限られており、自分の適性や能力の問題もあり、さまざまな意見があることも承知しているつもりだ。もっとも、「やさしい社会を明石から」との思いで、市長として取り組んできた12年間の軌跡は、なんらかの参考にしていただけるようにも思う。

私がずっと言い続けてきた「やさしい社会を明石から」の「明石から」には、2つの意味がある。

1つは、たとえ国がしなくても、また全国の他のどこのまちがしなくても、まずは「明石から始める」という意味。みんなが無理と思い込んでいることでも、いわゆるファーストペンギンとして、最初にやってみせるという覚悟。

そしてもう1つは「明石から広げる」という意味。明石のまちでできることは、全国のどこのまちでも実現可能で、広がっていくべき取り組みだということ。そして本来は、国でこそやるべきことであり、明石という1つの自治体の取り組みが、いずれは国のベーシックな取り組みになってしかるべきものだという趣旨。

これまでの3期12年間で、「明石から始める」については、ある程度は具体化できたように思っているが、「明石から広げる」については、周辺の自治体などでの方針転換は始まっているものの、全国的には残念ながらまだまだこれからの段階。その動きを加速させる一助となることを強く願い、この本を世に出すことにした。

全国のみなさん、ぜひご一読のほど。

序章

私が生まれ育った明石市の二見町(ふたみちよう)は、瀬戸内海に面した小さな漁師町。私も漁師の子です。貧乏自慢をする気はありませんが、今から思えば、それなりに貧乏だったように思います。

4つ下の弟が障害をともなって生まれてきたのは、1967年のこと。そのときから、私たち家族の闘いは始まりました。

生まれ落ちた弟の顔は真っ青。チアノーゼ(酸欠状態)で息も絶え絶え。障害が残ることは明らかだったようで、そんな弟を前に、病院は両親に冷酷に告げました。

「このままにしましょう」。つまり「見殺しにしよう」ということです。

病院がなぜそんな対応をしたのか。

当時、日本には「優生保護法」という法律がありました。「不良な子孫の出生を防止する」。つまり、これ以上障害者を増やさないことを目的に、国を挙げて障害のある方に強制的に不妊手術や中絶手術を行う、差別施策を推進していたのです。

さらに兵庫県では、その法律以上の差別施策が全国に先がけて展開されていました。

「不幸な子どもの生まれない県民運動」。

1966年、当時の兵庫県知事が旗振り役となり、そのための組織を県庁内に立ち上げ、力を入れて取り組んでいました。

障害のある子どもを「不幸」と決めつけ、「そんな子は生まれる前に、ないしは、生まれたらすぐに命を終わらせよう」という運動。今の時代からすれば信じがたいことかもしれませんが、歴史的な事実です。そんな社会的圧力の中で、医師は当然のように弟を「生まれなかったことにしよう」と言ったのです。

兵庫県の運動は1972年まで、優生保護法は1996年まで続きました。

国や県が制度をつくり、強制的に人の命を奪う。たった30年前まで、とんでもないルールがあたりまえとされていました。それが、私たちの暮らす日本社会だったのです。

小学校卒業と同時に漁に出た父と、中学校卒業で女工を経て結婚した母です。行政の方針に沿った病院の対応に、抵抗できるわけはありません。

けれども「最期のお別れを」と言われて弟を見たとき、堪え切れず、「どうか命だけは」と泣き崩れ、「家に連れて帰りたい」と懇願したそうです。

なおも冷たく説得を続ける病院は「障害が残ってもいいのか?」と問い質しました。

それでもいい。両親は腹をくくりました。「覚悟しています」。そして、弟を私が待つ自宅へと連れて帰ってきたのです。

冷たい社会への「復讐」、この言葉が自分の原点にある気持ちに一番近いように思います。

少数派を無視する社会

命を救われた弟ですが、障害が残りました。2才のときには、脳性小児麻痺で「一生起立不能」と診断されています。

当時、障害を持つ子どもを診てくれる医師は限られていたので、弟と同じ病院で、同じようなお子さんがおられた他の家族にも出会いました。両親はその家族らとともに手を取り合って、障害のある子どものための運動を始めました。

その小さな運動は、ある意味、明石における福祉活動の原点と言えるかもしれません。そして、明石市内にあった母子寮の一部屋を借り、障害のある子どもたちとその家族のための居場所をつくったのです。

私も学校の帰りや休みにそこに立ち寄り、弟や他の障害のある子どもたちといっしょに時間を過ごしました。

日中は近くの小学校で全員が健常者の中で生活し、放課後には障害のある子どもたちの中で1人だけ五体満足の自分がいる。一方には自由に走り回れて、しゃべることができる子どもばかり。そこでは「もっと速く走れ」「早く書け」と求められる。もう一方には、歩くこともできず、言葉を発するにも苦労している子どもたちがいて、歯を食い縛っている世界がある。部屋の片隅で、学校では感じることのない少数者としての感覚、疎外感を覚えながら、「いったい、どっちが本当なのか?」と考えるようになりました。

自分が多数派である世界と、少数派である世界を同じ日に行き来する日々です。

どこにいても同じ自分のはずなのに、立場も気持ちも異なる状況に置かれてしまう。人は誰も、常に多数派でもなく、常に少数派でもない。おそらくそうなのだろうと思ったりもしました。

環境や見方が違えば、誰もがどちらにもなりえます。実はみんなが両方に属しているのです。多数派のルールだけで物事を絶対視するのはどうなのか。漠然と疑問に感じていました。

障害を持つ子どもたちはたくさんいる。だけど、そういった少数派は存在しないかのようにして成り立っている変な社会が目の前にある。実際に存在するのに、そんな子はいないかのような扱いをしている学校が「嘘っぽい世界だ」とも感じていました。

「何かがおかしい。何かが間違っている。きっと世の中の何かが間違っているに違いない」。

子ども心に、そう思えてなりませんでした。

同じ社会に生きているのに、多数は居心地が良くても、もう一方の少数派はしんどい思いをしている。両方の立場を行き来していた者として、こんないびつな社会のあり方が、まともだとは到底思えなかったのです。

なぜ別々なのか。なぜ分けないといけないのか。いっしょで何が問題なのか。みんないっしょで、いいじゃないか。

多数派に合わせておけば足りるのが「あたりまえ」の社会がずっと続いていくのなら、少数派はどうすればいいのか。少数者を存在しないかのように扱うことで、世の中のいったい誰が幸せになるというのか。

そんなことを平然と続けている社会、そこにある「あたりまえ」を変えたい。次第に強くそう考えるようになっていきました。

弟が小学校へ通うために
誓約書に書かされた2つの条件

弟に「一生起立不能」の診断が下された直後でした。

弟の前途を悲観した母は、弟といっしょに身を投げて死のうとしました。無理心中を図ろうとしたのです。でも、未遂で終わりました。

「あんたがおるから、あんたを残しては死に切れんかった」。

後になって、母からそう聞かされました。

そこからの両親は無茶苦茶でした。弟を何がなんでも歩かせようと強引なことをしたのです。

リハビリの知識などほとんどないのに、家の中で弟に歩かせる訓練を始めました。本当に無茶苦茶でした。「とにかく歩け」と無理やりに弟を立たせては転び、転んでは立たせての繰り返し。ときに弟の膝から血がにじんでいました。それでも「とにかく歩けるようにするんや」と、毎日毎日やり続けました。

その結果だと思ってはいませんが、「一生歩けない」と言われた弟は、4才のときに奇跡的に立ち上がれるようになりました。そして、5才のときには、どうにか歩けるようにまでなりました。なんとか小学校の入学までには間に合ったのです。

弟もこれでみんなと同じ地元の小学校に通える。家族みんなで本当に喜びあったものです。

ところが、忘れもしません。そんな私たち家族に、行政はこう告げてきたのです。

「歩きにくいのなら、遠くの養護学校(現在の特別支援学校)へ行ってください」と。

家から養護学校までは、電車とバスを乗り継いでしか行けません。それなのに、障害があるのに、それを理由に、わざわざ「家から遠い学校に通え」と、冷たく言ってきたのです。

「そんなことできるわけないやんか!」唖然(あ ぜん)としました。

当時の行政には、障害のある子どもを受け入れるという発想がなかったのかもしれません。障害者は普通じゃないから、別々にするのが当然で、むしろその方が障害者のためだというような態度でした。

「歩けるようにもなっているのに、おかしいやないか!」両親は行政に掛け合いました。

必死の訴えが届いたのか、トラブルが大きくなるのを避けたかったのかはわかりませんが、なんとか弟の入学は認められることになりました。

ただし、条件がつきました。

両親は誓約書に一筆を書かされることになりました。

1つは「何があっても行政を訴えません」。そしてもう1つは「送り迎えは家族が責任を持ちます」。

選択の余地はなく、私たち家族は行政から出された条件を受け入れざるをえませんでした。それでようやく、私と同じ地元の小学校への通学が許されたのです。

弟の送り迎えは、4つ上の私がすることになりました。両親は朝早くから漁に出てしまっていたからです。

私は自分のランドセルとカバンの中に、弟の分を合わせた2人分の教科書を入れて、弟には空のランドセルを背負わせて毎日通いました。毎日が戦場に赴くような気持ちだったのを覚えています。

正門をくぐったすぐ横にトイレがあり、毎朝そこに着いたら、端っこの個室に入って鍵を閉めて、弟のランドセルに教科書を移しかえました。そして「がんばってこいよ」と言って、弟を教室に送り出す毎日でした。

本人の幸せは
本人が決めると知った

弟が小学校に入学して間もないころ、学校行事で潮干狩りに行く機会がありました。全校生徒での遠足です。1年生の弟も、5年生の私もみんなといっしょに遠浅の砂浜へと繰り出しました。

なんとか歩けるようにはなっていた弟ですが、足元は不安定な水を含んだ砂地です。その浅瀬で弟は転んでしまいます。そして、自分では起き上がることができませんでした。水の深さはわずか10センチほどでしたが、弟はそこで溺れてしまったのです。

状況を察した私が駆けつけ弟を起こし、大事には至りませんでしたが、周りにいっぱい人がいたのに「どうしてすぐに起こしてくれなかったのか」との思いは、拭い去れませんでした。今となっては、誰にも悪気はなく、どう対応していいのかわからなかっただけなのだとは思いますが、そのときは悲しくて悔しくて唇を噛みしめました。

帰り道、ずぶ濡れになった弟の手を引いて、2人で家に帰る途中、涙をこらえて見上げた曇り空は、今も心に焼きついています。

歩くのがやっとで、1年生のときの運動会は黙って見ていただけの弟でしたが、2年生になり、急に「運動会に出たい」と言い出しました。「そんなもん走れるか」と、私は当然のように反対しました。「笑いものにされるだけや」と。

ましてや潮干狩りで危ない目にもあっているのです。父も母も止めようとしました。

「歩けるようになって、学校に通えて、それで十分やないか。これ以上、周りに迷惑をかけるわけにいかんやろ」。

それでも弟は泣きじゃくり「絶対に出たい」と言って、聞き入れません。あまりにも弟が言い張るので、結局、形だけ参加ということで運動会に出ることになりました。

当日、小学2年生の部の50メートル走で、いよいよ弟が参加する順番。

「ヨーイ」「ドン」とピストルが鳴り、みんなが走り出し、次々にゴールに駆け込んできました。私はゴール近くの席に座っていたこともあり、全体がよく見渡せるところから見ていましたが、弟はヨロヨロとよろけるような動きで、まだスタートから10メートルぐらいしか前に進んでいませんでした。

「恥ずかしい。みっともない」。そのときの私の正直な気持ちでした。

ところが、弟の顔に目をやったとき、自分の目を疑いました。

笑っていたのです。満面の笑みで、うれしそうに。1人取り残されながらも、ゆっくりと前に進んでいたのです。本当にいい顔をしていました。

「ええ顔してるな」。これまでに見たこともないような笑顔をしている弟を見た瞬間、私はそれまでのすべてが引っくり返るような思いがしました。そして、涙がボロボロと止めどなくこぼれてきたのです。

「弟のため」と言いながら、本当のところは、自分が周りから笑われたくなかっただけなのかもしれない。「たとえ恥ずかしくても、みっともなくてもかまわないから、弟の気持ちを大切にすべきだったのに」と思うと、涙が止まりませんでした。

自分のことが情けなく思えて仕方がありませんでした。

たとえ周りに迷惑をかけるかもしれなくても、兄として、とことん弟の味方であるべきだったのに。理不尽な冷たい社会に対して、家族として闘ってきたはずなのに。兄として弟のことを理解しているつもりだったのに。

「一番冷たかったのは、この自分だったのかもしれない」。そのようにさえ思えてきました。

本人の幸せを決めるのは、他の誰でもなく、本人。親や兄でもなく、本人。本人の人生の主人公は、あくまでもその本人。その後の私のスタンスを決定づけたエピソードの1つです。

「返しなさい」という母の言葉に、
本気で返そうと思った

心の奥底にずっと突き刺さったままの言葉があります。

それは、母から言われた「返しなさい」の一言です。

最近になって、もしかしたらその言葉がある意味、自分の原動力だったのかもしれないと思ったりすることもあります。

母が弟と無理心中を図るも死にきれず、家族の新たな闘いが始まったころのことです。母は私にこう言いました。

「房穂、返しなさい。あんたも1人分で普通でよかったのに、どうして弟の分まで持って生まれてきたの。弟に半分返してあげて」。

立ち上がることもできず、話すことにも苦労していた弟に対して、兄の私は、勉強も運動もクラスで一番のような状況だったのです。

母が私にそう言ったのは、おそらく1度だけだと思いますが、それ以来、私の中で「申し訳ない。なんとか返したい」というできもしない思いが、どんどんと膨らんでいったように思います。

「自分の手足を引きちぎってでも返さなきゃならない」。

テストで100点をとっても素直には喜べず、かえって「申し訳ない。ごめんなさい」と心の中で言い続けてきたようにも覚えています。

勉強も運動も人一倍努力はしたつもりです。

でも、弟や他の障害のある子どもたちが「歩けるようになろう」「言葉を話せるようになろう」と必死にがんばる姿を見ながら、「自分の努力なんて、それに比べたらたいした努力じゃない」とも思っていました。

いくらがんばっても歩けるようになるとは限らず、話せるようになるとも限らない。それでもがんばり続ける姿に、努力が報われたり報われなかったりすることの不公平さを強く感じたものです。

2人分、稼ぐために東大へ

母からは、幼いころから「私らが死んだ後は、あんたが弟の面倒を最後まで見なあかんから、2人分稼げるようになってな」とも、繰り返し言い聞かされてきました。

精一杯、勉強して東大に行きました。

子ども時代の私にとって、勉強というのは、両親を楽にさせてあげるため、弟の面倒を見続けていくための自分に課せられた使命だと思っていました。

ときどき「勉強しましたか?」と聞かれることがありますが、もちろん必死に勉強しました。世の中には勉強しなくても賢い人もいるのかもしれませんが、少なくとも私はそうではありません。本当に必死に勉強しました。日本全国の受験生全員の中で、今の自分が一番勉強しているはずだと胸を張れるくらいには、勉強したつもりです。

自分がここでがんばらないと、助けられる人も助けられなくなってしまう。私が賢くなって、力を持って、世の中を良くしないと、救える命も救えなくなってしまう。

そんな私の姿勢には、父との対比も大きく影響していました。

父は、小学生のときに兄3人が戦死してしまったこともあって、小学校卒業と同時に漁に出て、家族を支えるしか選択肢のない人生を歩んできていました。

中学校にも行かせてもらえず、朝から晩まで働きづめ。学校の宿題すらやらせてもらえなかったようです。それに比べて自分は本当に恵まれていると思いました。小学生のころ、両親に「海に行って漁の手伝いをしなくてもいいの? 宿題してもいい?」と尋ね、「いいよ」と言われると「ありがとう」と答えていたくらいです。感謝の気持ちで、勉強を続けたのです。

もっとも、家庭の事情は厳しく、塾に行くような余裕はありませんでしたし、参考書や問題集も必要最低限しか買いませんでした。図書館も近くになかったので、結局、近くの本屋さんで参考書を立ち読みしながら、独学で大学受験をしました。

ありがたかったのは、その本屋の親父さんが、私のために店の片隅に小さな机とイスを用意してくれたことです。

私が大学に合格した後、親父さんは「わしが通してやったんや」と周りに言っていたそうですが、まさにそのとおりで、あのときのご恩には今も感謝しています。

おかげさまで合格となり、入学金も授業料もすべて免除にしていただきました。返済不要の奨学金も複数いただき、親からの仕送りもなく大学を卒業できたのは、今となっては幸運な時代だったと思います。

今の時代だと、おそらく同じようにはいきません。経済的に厳しい家庭にとって、私たちの社会はどんどん冷たくなっていっています。

両親に言った。「うちの家だけよくなったら、それで終わりか?」

1982年、大学に入学しました。

東大に行けば、社会を良くしたいとの志を同じくするような仲間がきっと見つかるはずだ。田舎者で世間知らずだったこともあり、単純に考えて東大に行ったのです。

ところが実際は、そうではありませんでした。

裕福な家庭に育ち、塾に通って、進学校に入り、家庭教師に勉強を見てもらって合格したような学生が多く、ほとんどが現状維持的思考の持ち主。

つまり、今の社会に満足している者が大半でした。

もっとも、私が入った駒場寮という学生寮については例外で、経済的に厳しい状況を前提に入寮できることもあり、世の中を良くしたいという思いの学生も一定数いたのです。

その東大駒場寮で寮委員長に立候補したのは、大学1年の秋のことです。

当時の駒場寮は長らく民青(みん せい)系(共産党系)が仕切っており、組織の何の後ろ盾もなく、たった1人その対抗馬として立候補したため、周りからはずいぶんと驚かれたものです。

選挙のキャッチコピーは「自分たちのことは自分たちで決めよう」。

寮に暮らしていない外部(共産党系の上部組織)の大人の指示に従うのではなく、実際に暮らしている寮生みんなで話し合って、寮の運営方針などを主体的に決めていこうという趣旨でした。

選挙の結果は、下馬評を覆しての圧勝。それを機に、いわゆる学生運動や市民活動に積極的に身を投じていくことになります。

「東大を、権力者に奉仕する学校ではなく、困っている人を助けるための学ぶ場に変えたい」「助け合い、支え合う社会をここからつくりたい」との思いでしたが、活動の代表格だった私は警察に目をつけられることになり、地元明石の実家にまで警察がやってきました。

小さな田舎の漁師町だったので、「過激派になったらしい」とか「頭がおかしくなったらしい」といった噂が広まり、親も周りから白い目で見られたそうです。

連絡があり、私は実家にいったん戻りました。

当然、こっぴどく叱られると覚悟をしていましたが、そうではありませんでした。いきなり父が私にこう言ったのです。

「もうええんや。家族の闘いは終わったんや」と。

続けて母も「お願いやから、普通の大学生になって」と、泣くように訴えてきたのです。

両親の気持ちもわからなくはありませんでした。

たしかに弟は歩けるようになった。障害は残っているけれども、普通学校に進学もできて、それなりにみんなといっしょに過ごせてもいる。家の生活も遠い昔に比べれば少しは楽になってきた。「うちの家はもう大丈夫だから、おまえも他の大学生みたいに普通に学生生活を楽しんでほしい」と懇願してきたのです。

でも、私は反論してしまいました。

「歩けるようになったのは、うちの弟だけやないか!」

弟は、兄である私が世話をしなくても大丈夫な状況になった。ところが、子ども時代にいっしょに過ごした他の家族はそうではない。むしろ成長にともなって障害が重度化したともだちもいて、それぞれの家族の苦難はなおも続いている。

「他の子は歩けてない。その家族もみんな大変なままや。うちの家だけよくなったら、それで終わりか? 終われるかそんなもん! 闘いはこれからや!」

理不尽な社会への怒りを胸に生きてきた者として、大学に行ってさらに強く感じたのは、周りの者の無関心、現状追認の空気感。そして、誰かが代わりに闘ってくれることもなく、誰かが世の中を良くしてくれることにも期待しがたい。気づいた者が、自らそれを正し、世の中を良くしていくしかないであろうという冷徹な現実。

そうであれば、苦難から解放された立場の私がやらずして、誰がやるのか。誰が人の痛みや悲しみに寄り添うのか。自分の家族の世話で精一杯の人間に、それ以上何をさせるのか。

そんな思いを逆に強くして、東京に戻ることになりました。

テレビ局時代に感じた限界

学生生活を終えた1987年、NHKへ入局しました。社会の理不尽さを世の中に広く知ってもらい、その解決方法を提案していきたいと思ったからです。

NHK福島に赴任した直後に、社員食堂に自己紹介のつもりで張り紙をしました。

「『差別』と『貧困』を世の中からなくしていくために、NHKに入りました。みなさんよろしくお願いします」。

張り紙は、それを見た上司にすぐ剥がされました。今から思えば、たしかに非常識だったようにも思います。こういう厚かましいところが嫌われるのだとは思いますが、当時の思いとしては、張り紙に書いたとおりでした。いや当時から今に至るまで。

「ごちゃごちゃ言わんとまずは企画書を書け」と言われて、朝7時台のニュースの5分枠に提案したのが、障害のある方が働く作業所への取材でした。「朝から障害者はない」と言われ、カチンと来て「もう1回言うてみい!」と凄みましたが、ペーペーの意見が通るはずもなく、ボツ。私のデビュー作は「大きなカボチャが採れました」というトピックでした。

テレビ朝日で仕事をしていた時代もあります。「朝まで生テレビ」の番組制作スタッフとして、「原発の是非を問う」とか「天皇制と愛国心」といった番組企画にも関わりました。「ニュースステーション」の取材にも関わり、忙しく走り回っていたものです。

ただ、やりがいを感じつつも、一種のもどかしさを感じることも増えてきていました。

たしかにテレビの仕事というのは、とても躍動的で、働く者にとっては魅力的です。なんとなく自分に力があって、なんとなく世の中に影響を与えている気になれる仕事でもあります。

でも、どこか表面的な気がしてなりませんでした。

困っている方のところに行って、話を聞き、それを報道することはできる。けれども、実際に問題を解決していくことはできないのです。そんな立場ゆえの限界も感じていました。

「もっと、具体的な力になりたい。そのために具体的な力をつけたい」「どこか遠くから応援するのではなく、当事者の近くに寄り添っていたい」。

そう思い始めていた私に、大きな転機が訪れます。

「人間のための政治は勝つ」。
恩師、石井紘基さんとの出会い

運命的な出会いでした。

高田馬場の大きな書店で、ある1冊の本を手にしました。

『つながればパワー 政治改革への私の直言』。

表紙には、「石井紘基(いしいこうき)著」と赤い字で記されていました。当時、国会議員を目指していた政治家の決意表明の本でした。社会は変えることができるという、全編を貫く石井さんの確たる思い。その熱く強い思いは、当時も今も激しく胸に響き続けています。

「政治をあきらめなければ、日本は変えられる」「市民がつながれば、まちを大きく変えることもできる」。

まだ20代だった私は、50才近くになりながらも、本気で世の中を変えるために立ち上がろうしている人がいる事実に心からの感動を覚えました。そして、その感動そのままに手紙を送りました。

「あなたのような人にこそ政治家になってもらいたい。本気で応援させていただきます」と。

すると思いもよらず、すぐに返事がきました。そこにはなんと「お手紙ありがとう。ぜひ会って、話を聞かせてくれませんか」と書かれていたのです。驚くと同時に喜び勇んで、私は指定された喫茶店に出向きました。

そして、会ってすぐの私に対して、石井さんはいきなり話を切り出されました。

「本気で選挙を手伝ってもらえないだろうか」。

少し驚いて「石井さんほどの人なら、他にいるでしょう?」と尋ねると、「私には何の組織もないし、本気で選挙を手伝ってくれる人は、実はまだ見つかっていないんだ」とのこと。こんなに志の高い人なのにそんな状況なのかとびっくりしましたが、あまりにストレートな頼みごとに、思わず即答してしまったのです。

「わかりました。私が必ず当選させてみせますから」。

すぐに仕事を辞め、住み慣れたアパートも引き払い、世田谷の石井さんの自宅近くに引っ越しました。選挙の最初のスタッフとして、石井さんを当選させるために全身全霊をかけることにしたのです。

石井さんの存在を知るまでの私は、政治家に対して、いいイメージはありませんでした。社会を変えるためには、チェ・ゲバラのような革命家にでもならなければ無理だろうと考えてもいました。

けれども、石井さんのそばで寝食を共にしているうちに、本気で政治をやろうとしている人の強さ、真摯さに、心を打たれるようになりました。

「人間のための政治は勝つ」。

直球勝負で議論する。真っすぐな方でした。

石井さんが最初に駅立ちをしたときも、私が横に立ちました。石井さんがマイクを握り、私がビラを配る。日照りの日も、雨の日も、雪の日も。石井さんを信じ、有権者を信じ、訴え続けました。

しかしながら、結果は非情でした。1990年の衆院選、石井さんは次点で落選してしまいます。私は石井さんに謝りました。「当選させられなくて申し訳ありませんでした」。そして続けて「次こそ勝ちましょう。引き続きよろしくお願いします」と、気合を入れて言いました。

ところが石井さんは、自分のこと以上に私の将来のことを心配し、「泉くん、ありがとう。気持ちはうれしいけど、君をこれ以上そばに置いておくわけにはいかない」と答え、続けて思いもしない説得をしてこられたのです。

「司法試験を受けて、弁護士になりなさい」。

あまりに突然の話に、私は戸惑いながら「私は教育学部卒で、法学部じゃないですし、そもそも法律なんか嫌いだし、興味もありません」と答えました。

石井さんは続けました。

「選挙は簡単じゃない。政策がいいから当選するわけでもないし、人物がいいから当選するわけでもない。これまでに数多くの政治家を見てきているけれども、最初は志があっても、選挙が怖くて、途中で志を失っていく者がほとんどだ。君にはそんな政治家にはなってほしくはない。落選を怖がらず、胸を張った仕事を続けるためにも、弁護士の資格を取っておきなさい」。

そしてさらに続けました。

「それに君はまだ若い。いい政治家になるには、世の中のことをもっと知っておく必要がある。弁護士になって、明石に戻り、本気で人のために尽くしなさい。そして世の中のことをもっと深く知りなさい。政治家になろうと急いではいけない。いずれ君は政治家になる。40才くらいだろう。その前に、まずは弁護士になりなさい」と。

強い説得を受け、それまではまったく思いもしなかった弁護士という資格を得るため、私は司法試験を受けることになったのです。

六法全書を初めて見たとき、
赤ペン入れて直してやろうと思った

20代半ばにして法律と向き合うことになりましたが、初めて六法全書を開いて、条文を読み始めたときのことは忘れられません。思わず口から文句が飛び出るほど、憤りを覚えました。

「誰や! こんな冷たい条文を書いたのは! 貧乏人をバカにしやがって!」

条文をいくら読み進めても、障害者や犯罪被害者といった社会的弱者への思いやりがほとんど感じられなかったのです。

子どもの権利ですらどこにも書かれておらず、財産権ばかりが過度に保護されており、お金持ちにばかり有利なように書かれている。強盗の処罰は厳しいのに、強姦の処罰はあまりにも軽い。極めて不公平な内容が次々と目に飛び込んできました。

理不尽な冷たい条文があたかもあたりまえのように存在し続けていることに、驚きを通り越して腹が立ってきました。にもかかわらず、司法試験の受験生らは必死にそれを丸暗記しようと励んでいる。そして、自分もその1人であることが情けなくて仕方ありませんでした。

「赤ペン入れて直したろか!」と怒りながら勉強する日々がしばらく続きましたが、あるときを境に発想を切り変えることにしました。こう考えることにしたのです。

「世の中の理不尽の正体、言い換えれば、子ども時代から感じてきていた社会の冷たさの原因の1つは、法律にある。間違っているこれらの法律を変えていくためには、まずはその法律を知る必要がある」と。

そう思い直し、司法試験に臨むことにしました。

もっとも司法試験は甘いものではなく、結局4回目の挑戦での合格となりましたが、私が司法試験に通ったことを知った石井さんは、花束を抱えて駆けつけてくださいました。あの笑顔は、今でも目にしっかりと焼きついています。

弁護士になり、その後独立。2000年には地元の明石で、法律事務所を設立しました。

弁護士としてたどりついたのは、
世の中の根本的な問題

赤ペンを入れたいことの多い法律ではありましたが、中には美しい条文もありました。たとえば、弁護士法の第1条です。そこには、こう書かれてあります。

「第1条(弁護士の使命) 弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする」。

わかりやすく言えば、「基本的人権の擁護」とは「人助け」、「社会正義の実現」とは「世直し」のこと。「そんな使命が弁護士にはあるのか!」と、感動したことを覚えています。以来、その使命に従い、行動してきたつもりです。

目の前に困っている人がいれば、お金に関係なく仕事をしました。とりわけ社会的に弱い立場にある依頼者については、他の弁護士が見捨てても自分だけは見捨てないとの思いで弁護士活動を続けました。

お金のない依頼者からは無料で依頼を受けました。知的障害のある交通事故の被害者のケースでは、泣き寝入りはよくないと思い、自腹を切って裁判を提起し、賠償金を勝ち取って全額を渡したりもしました。いわゆる悪徳なヤミ金に対しては、ヤミ金のしていることをヤミ金自身に知らしめようと、私の法律事務所からスタッフ総出で連日電話をかけまくり、相手が「やめてください。こちらも、もうしませんから」と言うまで、徹底的に闘ったりもしました。

国選弁護人として初めて担当したのは、窃盗の常習犯の件でした。

妻子のある被告人は十数件の余罪を自白。そのすべてに詫び状を用意していました。にもかかわらず警察は、被害額が大きく証拠も明らかな2件だけを立件しようとしました。

私は警察に乗り込み、それはおかしいと訴えました。

「被害者がいる以上、全部捜査すべきじゃないのか!」と。

それらすべての事件について事実を明らかにして、被害者に謝罪し、償ってこそ、加害者の更生への道もできると思ったからです。

結果、私は被告人の妻とともに被害者全員のご自宅に何度もお詫びに回り、全件について示談をとりまとめました。

そのときの裁判官は、たまたま司法修習生時代の教官でした。

「泉くん、気持ちはわかるけどな、やりすぎや」。

判決後、しばらく経ってから諭されました。ただ、今でも間違っていたとは思ってはいません。被告人はその後、再犯することなく家族で暮らしていると聞いています。

子どもたちの未成年後見人もしてきました。

両親を亡くし、2人だけで暮らすことになった子どもたちが、親権者がいないことを理由に学校を退学にされそうになっていたのです。その子どもたちの関係者が「あまりにかわいそうだ」と、私の法律事務所に駆け込んできました。

兵庫県の児童相談所に相談をしても、つれない対応でした。「子どもたちが本当に困っているんです」と訴えても、まったく動いてはもらえません。兵庫県の教育委員会にも掛け合いましたが、面倒なことには関わり合いにはなりたくないとの態度がありありで、本当に冷たかったのです。

それでも、子どもたちを見捨てることなど絶対にできません。

弁護士として依頼を受けた形をとり、戸籍をたどり、実家のある九州まで新幹線を乗り継ぎ、親戚の家を尋ね回りました。事情を説明すると同情してくれる人もいましたが、実際に身元を引き受けてくれる方は見つからず、最後まで誰も手を挙げてはもらえませんでした。

結局、私自身が2人の未成年後見人として身元を引き受けることになり、それでようやく、学校は退学にならずに済みました。そして、法律事務所のすぐ近くにアパートを借り、その2人を住まわせ、法律事務所のスタッフの1人に世話係になってもらい、2人が成人するまで面倒を見ることになりました。

私の弁護士時代の業務の多くの実態は、言うなれば「生活苦相談」とも呼ぶべき内容ばかりです。しかも多くの案件は、子どもの養育や仕事の確保など、弁護の「その後」、継続的な生活支援の問題も抱えている。にもかかわらず、行政からは見過ごされ放置され続けている場合がほとんどでした。

数多くの悲しみや苦しさに出会い、ともに悔しさを噛みしめる中で、いわゆる従来的な弁護士の仕事の限界というものを改めて思い知らされました。そして法律や制度、つまり、この世の中のそもそものしくみを変えなければ、問題を根本的に解決することなどできないのだと痛感させられたのです。

間違った法律や制度の中で抗うのではなく、その法律や制度自体を変えていく必要がある。そのためには政治の世界に行かなければ。

弁護士を続ける中で、そういった思いがどんどん高まっていきました。

正義のために刺された
遺志を引き継ぎ、国会へ

私が弁護士として腐心している間も、石井さんの国会での活躍は華々しいものでした。

司法試験に合格する前年、石井さんは2度目の衆院選で当選を果たしていたのです。正義感の塊のような人で、国家の不正にも真正面から切り込み、国会の「爆弾男」として問題を追及する姿、地下鉄サリン事件の被害者支援に取り組む姿も、マスコミなどで大きく報じられていました。

けれども、石井さんは突如、その一生を終えることになります。

2002年10月25日、ニュース速報が駆け巡りました。

「衆議院議員、刺殺」。

そこには、石井紘基の名前がありました。私が来る日も来る日も送り迎えをしていた世田谷の自宅の前で、暗殺されてしまったのです。

「金銭トラブル」。犯人は当初そう言い、検察もそう主張しましたが、そんなわけはありません。

その日は石井さんが国会質問の書類を提出する日。カバンの中に入っていたのは、国家の不正を追及するための書類でしたが、事件現場のカバンからは、その書類が持ち去られていました。そして、その後も発見されることなく、闇に消えたままになっています。

石井さんの無念を思うに、今も悔しくてなりません。

当時、明石で弁護士をしていた私は、突然の悲報に驚き、すぐに東京へと駆けつけました。そして通夜や葬儀などを手伝いました。その後の偲ぶ会では友人代表の1人として挨拶も行い、久々に昔の仲間たちにも再会することになりました。

そこで私は周囲の方々から石井さんの遺志を継ぐよう説得され、そのこともあり、その翌年に、政治の道に進むことになったのです。

2003年の衆院選、石井さんの所属していた当時の野党第一党である民主党から出馬。奇しくも石井さんがかつて予言したとおり、私が40才になる年のことでした。

そして総選挙で当選し、国会議員になりました。

マスコミで感じた虚しさ、弁護士としての限界。子どものころから社会の冷たさを痛感してきた私は、石井さんの正義感を引き継いで、国民に寄り添う政治家として、「社会を変えていく」立場になったのです。

党や選挙区に関係なく、
他のみんなが見捨てても

国会議員になり、私はさっそく「議員立法」の作成に取りかかりました。官僚主導の「内閣提出法案」とは異なり、国会議員が主導して起案できる法律のことです。かつて「赤ペン入れて直したろか!」と怒りを感じた法律に、自らペンを入れる権限を得たのです。

間違っている法律や制度を改めるため、見過ごされ放置されていた課題を解決するため、頭を動かし、声を枯らし、困っている人のために精力的に取り組みました。

犯罪被害者の権利や利益を守る「犯罪被害者等基本法」を担当したときのことです。

元々は私が国会議員になる前、民主党が先に国会に提出していた法案でしたが、与野党の対立に巻き込まれ、塩漬けにされ続けていました。それが、犯罪被害者の会の署名が自民党に提出されたことを受け、当時の小泉純一郎首相が「検討する」と回答し、いきなり動き出したのです。

ところが民主党は猛反発、反対を辞さない状況となりました。「野党が言うときは無視して、急に与党が手柄をとっていく気か!」という話です。

言いたいことはわかりますが、それでは当の犯罪被害者は救われません。

私は当選直後の新人議員でしたが、弁護士であり、被害者支援を数多くやってきていたこともあり、与野党協議の責任者を務めることになりました。

そして、周りの議員にこうお願いをして回りました。

「被害者に与党も野党もありません。被害者を救うことに変わりがない以上、なんとか力を合わせて成立させましょう」と。

こうして、「犯罪被害者等基本法」は成立となりました。

「おまえは何のために国会におるねん!」と言われ、議員立法を強く求められたこともあります。

突然の事故や病気の発症で障害を負ったのに、制度設計のミスで年金をもらえない方がいる。それを言ってきたのは、無年金障害者の弁護団の中心にいた友人の弁護士でした。

「制度の誤りなのに、官僚がメンツを守るために救済する気がないなら、国会議員がなんとかすべきだ」。まさにそのとおり。それが国会議員の仕事であり、責務です。

私は党内に組織を立ち上げ、座長となりました。そしてすぐに「無年金障害者救済法案」を作成しました。制度の不備によって障害者年金を受給できていない方々を救う議員立法です。

中央省庁の所管と所管の「はざま」や過去の施策の不備を顕在化させたくないとの霞ヶ関特有の論理から、放置されてきた問題でした。けれども、その置き去りにされた隙間にこそ、たくさんの方がこぼれ落ち、必要な支援が届いていなかったのです。

この法律が成立したとき、当事者とともに涙したのがついこの間のことのように思い出されます。

同じように議員立法を求められたことは、他にもあります。「カネミ油症(ゆ しよう)事件」を長年追ってきた、ジャーナリストの友人からでした。

1968年、食用油にダイオキシン類が混入、甚大な健康被害が広がりました。特に妊娠中の女性患者からは全身真っ黒の胎児が産まれ、すぐに死亡。社会に大きな衝撃を与えました。この問題が、30年以上もずっと放置されていたというのです。

2004年の暮れ、私はその友人といっしょに長崎県の五島列島に飛び、被害者のもとを1軒1軒訪ね歩きました。

他の議員は通常、国会が終わるとすぐ地元に帰り、年末年始といえば支援者を回りビールをつぎまくっている時期です。長崎は私の地元でもなんでもありません。けれども選挙区がどこかということは関係ありません。困っている声を聞いたからには放ってはおけない。「私が必ずなんとかします」と被害者のみなさんと約束し、その後、このテーマについても自ら法案をつくりました。

ただ、この法案は、私の国会議員の任期中には間に合いませんでした。

2005年9月のいわゆる郵政解散選挙で、私自身が落選してしまったからです。でもその後、2007年に国会で法律が成立すると、被害者の方々からお礼の手紙が来ました。「泉さんのおかげです」。法案づくりをごいっしょした法制局の担当者からも手紙をいただきました。「あのときの法案がついに制定となりました。どうしてもお伝えしたくて」と。

私が国会にいたのは2年ほどです。

わずかな期間でしたが、数多くの議員立法の作成に関わりました。党や選挙区に関係なくても、気づいたなら放っておかない。他のみんなが見捨てても、せめて自分だけは最後まで見捨てない。そういった思いで、国会議員として走り続けた時代でした。

政治家の使命・役割は、困っている人に寄り添い、手を差し伸べて、それを解決すること。その思いは、国会議員であろうが、市長であろうが、変わるところはありません。

支持母体は「政党」でも「業界団体」
でもなく「市民」

郵政解散での落選後、私は明石に戻って弁護士の仕事を再開します。

国会議員時代に、社会福祉にもっと詳しくなる必要があると痛感したことから、社会福祉士の資格も取りました。かねてから弁護士として、障害者や高齢者、そして子どもたちのために走り回る日々でしたが、社会福祉士の資格を取ってからは、狭い法律だけじゃなく福祉の観点も取り入れて、総合的な支援ができるようにもなりました。

2011年、ついに明石市長選挙に立候補するときがやってきました。

対立候補は、兵庫県の知事室長経験者で、直前まで明石市を含むエリアの県民局長だった方。自民党と民主党が推薦、兵庫県知事も支援、医師会、商工会議所、商店街連合会、労働組合など業界団体のほとんどと、市議会の全会派が全面支援を表明していました。

つまり、政界や業界の組織票はすべて相手方に回っていたのです。

一方の私は、無所属です。

出馬会見で、記者から問われました。

「相手陣営は盤石です。政党も業界団体も固めて、知事の支援も受けています。あなたに支持母体はありますか?」

この質問に私は、はっきりと答えました。

「支持母体は市民だけです。でも、それで十分だと思っています」と。

記者やカメラマンは薄ら笑いを浮かべました。地元紙もテレビ局も、私が勝てるなんて露ほども思えなかったでしょう。形式上、重ねて「勝算は?」と質問が続けられ、再度、私ははっきりと答えました。

「当然あります。勝てますし、必ず勝ちます。それが明石のまちと市民のためだからです」。

そう言って会見を終えたのが、今から12年前のことです。

市長選は一騎打ちの激戦となりました。

結果はわずか69票差。

相手の得票数53993票に対し、54062票。一人ひとりの「1票」が積み重なり、政党や業界の壁を破り、市民だけを頼りに、市民とともに勝ち切りました。

明石市民のことを最後まで信じ抜いたからだと思っています。

「支持母体は市民だけです。でも、それで十分だと思っています」。出馬会見での言葉は、その場の思いつきではありません。まさにそういう人生を生きてきたのです。子どものころから、そして弁護士になってからも、ふるさと明石のまちで、普通の市民と喜怒哀楽をともにする生き方をしてきたのです。

いざ選挙になって、私のもとに駆けつけてくれたのは、そういった喜怒哀楽をともにしてきた市民でした。

あの日、明石市民は
自分たちの未来を変えた

69票という僅差は、たった35人が態度を変えるだけでひっくり返ります。人口30万人近くの都市で、たった1クラス分の差です。

「泉さんは、わしが通してやったんや」と言い合う市民の声が市内のいたるところで聞かれたそうですが、本当にそのとおりです。

2011年4月24日、明石市長選挙。市民の1票がなければ、今日の明石市はありません。市政の転換も「5つの無料化」も「全国初の施策」も「10年連続の人口増」も実現していません。きっとこの本が書かれることもなかったでしょう。

おそらく全国でも、いまの明石市民ほど、自分の1票の持つ力を信じている市民はいないのではないでしょうか。

あの日私たちは、私たちの手で、私たちの未来を変えたのです。

以上が、私が市長になるまでの経緯です。

次章から語るのは、こうして明石市民が選んだ未来にどんなことが起こったのか。示したのは、「政治を変えることができたら、私たちの生活は変わる」という事実です。

明石市の現実がみなさんの希望に、そして全国どこのまちにとっても、あたりまえのことになればと願っています。

<さいごに>

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