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竜宮城は昔話の中ではなく、今を生きるわたしたちの体内に存在する?

認知症のある方の心と身体には、どんな問題が起きているのでしょうか? いざこういうことを調べてみても、見つかる情報は、どれも医療従事者介護者視点で説明したものばかり。肝心の「ご本人」の視点から、その気持ちや困りごとがまとめられた情報が、ほとんど見つからないのです。

この大切な情報を、多くの人に伝えたいと思い、書籍『認知症世界の歩き方』から1話ずつ、全文公開いたします。興味を持っていただけましたら、お近くの書店やAmazonでお買い求めいただけるとうれしいです。

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この宮殿から出たとき、あなたはいくつ?

認知症世界。この世界には、正しい時の流れの感覚を完全に失ってしまう、世にも奇妙な現代版・竜宮城があるのです。

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ほんの数分音楽を聞いていただけのはずなのに、半日の時間が過ぎる部屋。ランチを食べようとしたら、いつの間にか真っ暗なディナーの時間になっている食堂。そして、数十年前の結婚式の思い出が、昨日のことのように感じられる教会……。

そう、この宮殿の時計の針は一定のリズムでは刻まれず、独自の時を刻むのです。亀がゆらゆら泳ぐように、ゆっくりと流れることもあれば、トビウオのようにひとっ飛びで進んでしまう……そんな気まぐれな時の海流を、あなたは泳ぎ切れますか?

「今日、何曜日だっけ?」
と1日に何度も思う生活

飛行機で海外旅行に出かけると、つらいのは「時差」ですよね。時差とはつまり、「体内時計」と「実際の時間」のズレのこと。

また、大型連休や夏休みになると、ふと今日が何曜日なのか、平日か休日なのかわからなくなることってありませんか? 人間の持つ時間感覚は、環境の変化や体調などによって、実はいとも簡単に狂ってしまうものなのです。

(旅人の声)

先日、昼ごはんに、そうめんを茹でていたときのことでした。湯を沸かして、鍋にそうめんを入れて、「そろそろ茹であがったかな」と思って湯からあげてみたら、すっかりフニャフニャトロトロです。

1、2分のつもりが、どうやらいつの間にか20分近く経ってしまっていたのです。その間、何か別のことをしていたわけでもなく、ずっと鍋の前に立っていたのに。

最近は鍋やヤカンを火にかけて、すっかり水がなくなりカラカラになってしまうこともしばしば。焦げ臭さに気づいて、慌ててコンロの火を消しました。

認知症の症状が出てきてからというもの、時間の感覚にズレが出てきたようで、そんなことがたびたび起こるようになりました。体内時計の針の進む速度が不規則なので、だれかに言われるまで、本当の時刻とのズレに気づくことができないのです。

時間に惑わされ、苦労しながらも、なんとか料理を完成させて食事を済ますのですが、そのあとも不思議な時間感覚がわたしの周りに漂っています。

今は、自分の目とタイマーを頼りに料理をしています。体内時計をフル活用していたときには、タイマーがこんなに便利なものだとは思ったこともありませんでした。タイマーはわたしの体“外”時計となって、正しく時間を計ってくれる大事な道具です。

コンロの火を消し忘れる理由

カレーを煮込んでいる間に、友人にメッセージの返信を……と思ってスマートフォンをいじっていたら、ついつい夢中になってしまい、煮込んでいることを忘れてしまう。そんなことはだれにでもよくあるでしょう。これは、通常の「もの忘れ」です。

しかし、記憶の障害により、数分前にコンロに火をつけた自分をそっくりそのまま忘れてしまうことがあります(STORY1「ミステリーバス」)。

そして、記憶障害だけでなく、今回のエピソードのように時間感覚のズレも大いに関係しています。

料理に慣れている人なら、パスタを茹でる10分間、そうじゃない人でも、カップラーメンをつくる3分間がどのくらいかは、感覚的になんとなくわかるはずです。もちろん、そろそろ10分かなと思ったら、それが8分だったり15分だったりと、多少のズレはだれにでもあるでしょう。

しかし、認知症のある方の場合、ふと気づいたときには、数時間経過してしまう、あるいは時間が経過している感覚そのものを失ってしまうことがあります。

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(旅人の声)

昼食後13時くらいからの家事の合間は、わたしのつかの間の休息時間です。

その日も、いつものようにソファーでのんびりしていました。特に寝不足でもなく、昼寝をするつもりもなかったのですが、娘に声をかけられて我にかえると、もう6時です。窓の外は薄暗く「朝まで寝てしまった!」と思ったら、娘は部活から帰ってきたばかりで、夕方の18時でした。

お腹が空いていたのですが、朝ごはんを作ればいいのか晩ごはんを作ればいいのかわかるまで、少し時間がかかってしまいました(笑)。

そんな日が続くと、朝と夜の感覚がだんだん曖昧になってきて、夜に目が冴えて、眠れなくなってしまう日が増えてきました。なので、こまめに時計を見ながらなるべく規則正しい生活を心がけるのですが、最近は、朝起きると今日が何曜日なのか、さらに何月なのか、わからないことがあります。

うっかり曜日を確認し忘れると、決まった曜日にゴミ出しをすることが難しく、どんどん部屋にゴミが溜まってしまいます。

この間は、友人夫婦が遊びにきてくれて、ふと「結婚して何年経ったの?」と聞かれたのですが、わたしの頭の中では自分が体験してきたことの時系列がぐちゃぐちゃになっているようでした。

記憶をさかのぼって数えようとしても、「30年前かな?」と思えばそんな気もするし「先月だったかな?」と思えば、そんな気もしてきてしまいました。

体内時計がズレる理由

体内時計とは、「人が体内に持っている約24時間周期のリズム」のことです。

このリズムは、1つの時計で刻まれているのではなく、人間の脳、臓器、皮膚などの細胞1つひとつにそれぞれの時計があり、それらが互いに作用しながらリズムを刻んでいます。*1

そのため、すべての時計がばらばらにズレないように身体の中ではさまざまな調整がなされているのですが、その調整を乱してしまう要因がいくつかあります。

1つ目は、脳の視交叉上核しこうさじょうかくという場所にトラブルが起こることです。ここは、太陽の光を感知して外界との時間のズレを調整し、体内すべての時計のズレを一斉に整えるマスター時計の役割を持っています。*1

2つ目は、身体のさまざまな感覚器官から入ってくる知覚情報のトラブルです。たとえば、朝ごはんを食べると、味噌汁の塩分が身体の中に入り、胃や肝臓が働きはじめて血圧が下がります。体内に入ってくるこのような情報によって、身体は「朝」という時を認知しています。

しかし、感覚が鈍くなっていたり、血圧調整がうまくいかなかったりする場合(STORY7「七変化温泉」)、せっかく朝ごはんを時間通りに食べても、きちんと「朝」を認識することができず、時計がズレてしまいます。

3つ目は、社会的活動が変化することによって起こるトラブルです。認知症の影響で外出が減り、1日中部屋の中で過ごすようになると、太陽の光を浴びる時間が減り、活動量が低下します。それにより、マスター時計である脳の視交叉上核を刺激するはずの太陽光が届かなかったり、体内に入ってくる情報が不十分になったりしてしまうのです。そのため、さらに時間のズレが起こったりしてしまいます。

*1 金尚宏・深田吉孝「生活時間と健康 生物時計と体のリズム」『学術の動向』24巻8号 2019年8月

*2 岡靖哲「<Symposium 03-4> 神経疾患における睡眠障害 認知症における睡眠障害」『臨床神経学』54巻12号 2014年5月

次ページには、このストーリー内にアイコンの形で登場した「心身機能障害」と、その障害が原因と考えられる生活の困りごとを一覧にしてまとめています。ご自身や家族、周囲の方の困りごと・生活環境を振り返る参考にしてみてください。

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