こんな営業聞いたことなかった。異色のレシピ本6万部ヒットの舞台裏「つり人社」
お魚料理本のベストセラー『一生幸せになれる料理147 お魚イラストレシピ大百科』という本をご存知ですか? 全編にわたってイキイキとした魚の手書きイラストが描かれた異色のレシピ本で、6万部を突破しているのですが、売れている場所は本屋さんだけではありません。
発行元は長年、釣りの本一筋でやってきた「つり人社」さん。なぜそんな出版社がレシピ本? しかも営業の仕方もほかに聞いたことがないお話でした。舞台裏を営業部長の渡辺さんにお聞きします。
営業のベースは釣り具店
ー:つり人社さんは、戦後の1946年に創刊されて以来、一貫して釣りに特化してこられたんですね。
渡辺:そうですね。水辺に関わるものも含まれるんですけど、基本的には釣りだけです。
今回『イラストレシピ大百科』がここまでみなさんに認知していただけた。ただ、やはり釣りに特化した書籍を制作しているため、コアな釣り愛好家にはしっかりと届いている一方で、主婦の方が突然釣り関連の書籍を手に取るとは考えにくいですよね。
ー:そうですね。
渡辺:そういう世界から飛び出て、ようやく書店営業ってこういうものかなって感じています……。
一同:(笑)。
ー:それまでの営業っていうのは、普通とはちがったんですか?
渡辺:基本的には、釣り関連の書棚をしっかりとつくってくれている書店さん。また、釣り具店も重要な訪問先です。そこに来店されるお客様は100%釣りに興味を持つ方々ですから。釣り具店を主要な訪問先としつつも、周囲の書店も訪問範囲に含めていました。
ー:釣り具店をベースに……。
渡辺:そのほうが、正直に申し上げて強かったですね。
渡辺:もちろん、たとえばジュンク堂書店池袋本店さんや、丸善丸の内本店さん、書泉ブックタワーさんのようにしっかりと釣り関連書籍を取り扱ってくれている書店を訪問して、逆にその周りの釣り具店などを一緒に回るということもあります。
ー:釣り具店と書店の比率はどれくらいですか?
渡辺:店舗数でいうと、書店と釣り具店の割合は9対1程度ですね。
ー:でも売れやすいのは、釣り具店なんですか?
渡辺:そうですね。やはり釣りに関する書籍なので、確実に購入するお客さんの割合が高いのは釣り具店の方です。
ー:純粋な釣り愛好家が集まる場所ですもんね。そういう意味では。
渡辺:また、月刊誌などもあります。釣り具店では集客を促すために定期的に雑誌を並べていて、毎月25日に雑誌を買いに来てもらい、ついでに釣り道具も購入してもらうという、集客の意味で棚に置くって釣り具店さんが多いです。
ー:そういう感じなんですね。
本は「魔界」への入り口
渡辺:実は、釣り具店では書籍を販売すること自体に大きな利益を見込んでいるわけではありません。釣り具の利益と比較すると小さいですからね、正直言って。
ー:釣り竿1本に比べたら、たしかに。
渡辺:もちろん、しっかり本も売りたいと思っている釣り具店さんもあると思うんですけど、大抵はお客さんを引きつけるために書籍を置いているという意図が大きいですね。
ー:そんな背景があるんですね。
渡辺:みなさん釣り人はね、釣り具店のことを「魔界」って呼ぶんですよ。
ー:なんですか、それ。
渡辺:なんの用事もないのに、釣り具店に入ってしまうと、どうしてもなにかしらの商品を買ってしまうんです。
ー:ああ。
渡辺:そういう意味で散財して帰っちゃうんで。
ー:散財。
渡辺:まさに魔界なので。しっかりと奥さんに怒られるとかね。
一同:(笑)。
ー:その入り口が本なんですね。
渡辺:そういうふうに考えていただいている釣り具店さんが多いんじゃないかな。
レシピ本のきっかけはマリンジャンボ
ー:そもそもなんですが、この本のきっかけを聞いていいですか?
渡辺:全日空(ANA)さんのウェブサイトに「ANA釣り倶楽部」というコンテンツがあるんですが、このコーナーは実は弊社が運営しているんです。
ー:なるほど。
渡辺:そして、この本の著者である大垣さんは小学校6年生のときにANAの「マリンジャンボ」のコンテストで優勝したという、いわゆる天才少女なんです。大垣さんは釣りが好きで、アートディレクターとしても活躍し、さらにイラストも描く才能がある。
ー:マリンジャンボってあのクジラのデザインの。
渡辺:弊社の社長がANAとの関わりの中で大垣さんをご紹介いただきました。このタチウオの元となる絵があって。弊社の社長が見たときに「これは素晴らしい絵だ」と感じたそうです。釣りたての魚の色と、スーパーで売られている魚の色とはまったく違うんですね。釣り愛好家として、その違いを知っているんです。
ー:つまり釣りたての魚の色なんですね、これは。
渡辺:「ここに紫って足すの?」とか「ここ、こんな色なんだ」って思いますよね。そのイラストを見た瞬間に「これで本をつくらせてくれないか」と、社長がそこでラブコールをしたのがきっかけです。
ー:この絵にほれ込んだ。
渡辺:はい。そのため、実際に著者の大垣さんが自分で釣り、料理し、イラストを描くという形でこの本が制作されました。しかし、釣果が思うように上がらないこともありましたし、自分の満足のいく作品をつくるには時間がかかることもありました。ふつう出版予定を立てますけど、それができませんから、なかなか難しい部分もあったと思います。
ー:なるほど。釣れるかはわからないっていう。
渡辺:ほかにはこうやってパタリと開いたままで置ける製本。そういうこだわりがあるのと、この製本ができるのは日本でも数ヶ所しかなく、北海道にある石田製本さんで製本していただいています。
渡辺:まさに職人技なので、1ヶ月にできる製本数が1万5000部がマックス。要は10万部欲しいって言ってもできないんですよ。
ー:なるほど。
渡辺:単純にこの製本、高いですよ。
ー:いや、ほんとうに。このページ数。340ページ、フルカラーで180度開く。
渡辺:でしょ? これで本体価格2000円って、どこで利益出しているのっていうのがみなさんの疑問と思いますが、実際薄利です。
ー:なるほど。お買い得ってことですね。
渡辺:もちろん、社長も利益は重要だと考えていますが「大垣さんがそこまで言うならやってもらいましょう」ということになったのです。
ー:ほれ込んでですよね。ただ、いまは完成してこういうふうに見られるじゃないですか。当初はそのイメージって。
渡辺:当初はそんなに売れるかな、っていうふうに思っていた人間っています、きっと。
ー:それはまあ。
渡辺:わたしもどっちかっていうとそっち側でした。いままで失敗していましたから。どちらかというと、釣りの本を出して、コアな層にコアなものを届けたほうが確実に売れていたので。そっちを追い求めようとしていました。
ー:具体的に像が見えますもんね。
渡辺:そうです。読者が見えて売れる部数も見えて、安心もある。でも、化けるときはもちろんあります。ただどうなるかわからないものはやっぱりどうなるかわからなかったですし、ほんとうに販売の仕方もわからなかったので。真正面からDM送って、注文もらって、納品して、みたいなくり返しです。
ー:それは、どちらにですか?
渡辺:書店さんでいうと、法人の本部さんにもちろん送る。取次さんにも送る。そして、釣り具店さんのほうが、同じように問屋があるんですけど。問屋さんに送る。あとは月刊誌。月刊誌って釣り具店では直納の文化なんです。
ー:直納なんですか?
渡辺:そう。タカノ釣り具店とか、ワタナベ釣り具店に直納するんです。
ー:めっちゃ大変。
渡辺:その中にDMを混ぜて一緒に送る。
ー:箱の中に案内を入れる。
渡辺:そうです。で、もちろんFAXも送る。
ー:おもしろいですね。釣具店への荷物の中にレシピ本のDM入れて送るって。たぶん、だれもやってない。
意外な本の売れ方
渡辺:ただ、おもしろい動きをしているのは、釣り具店って100%釣りが好きな人が行くんですよ。それってだいたいは男性の方が多い。
ー:たしかに、そんなイメージです。
渡辺:で、それに、どういうわけか嫌々付き合わなきゃいけない奥さんとか彼女っているじゃないですか。
ー:ほー。
渡辺:たとえば……デートの合間に行くとか、食事の時間の前に「ちょっと寄っていい?」みたいな。「じゃあしょうがないわね」みたいな。いろんなケースがあると思うんですけど。で、釣り具店に入ったときに、奥さんなり、彼女ってまったく興味ないですよね、道具に。
ー:そうですね。
渡辺:なにをするかっていうと、本のコーナーで立ち読みするんです。そのときにこれをパラって。いままではこの立ち読みする本も釣りの本だからすぐ飽きちゃうんですけど、このレシピ本が刺さるわけですよね。
ー:なるほど。
渡辺:で、「あなたに無理やりついてきたんだから、これ買ってよ」って言ってご主人がこれ買っていくとか。
ー:めちゃめちゃニッチな需要に重なっている。
渡辺:もちろん、釣り好きのおじさんが奥さんの機嫌を取るためにギフトで買うとか、ご自身が料理好きだからご自身で買うケースもありますけども。だいたいはギフトです。「うちの主人が好きだから、主人に買っていく」っていう逆のギフトもあるし。「自分の子どもが最近釣りが好きになったので、料理もさせたいから」みたいな。で、これイラストだからわかりやすいとか、そういう需要もちょっと。
ー:へえ。
渡辺:この間「フィッシングショー大阪2023」っていう国内最大規模の釣りのイベントが3年ぶりにお客さんを入れて開催されたんです。
毎年各メーカーさん、釣り具メーカーさんが出店して、新製品を並べて、お客さんに触ってもらって、良かったら釣り具屋さんで注文してもらうという展示会です。
そのときに出版社の特典として、本は会場で売っていいんですよ。釣り具はだめなんですけど。
ー:そうなんですね。
渡辺:そのときに。まさにそういうお客さんばかり。
ー:おおー。
渡辺:もう実際、手に取って買われているお母さんが仲間に「わたし、これ買ったんだけど超いいのよ」って。「これ開いてもぜんぜん閉じないし、イラストあるからわかりやすいのよ」「え、ほんとう? あら! いいじゃない。買うわ」っていう、一番素晴らしいセールスマンがいるんですよ。
ー:口コミ。
渡辺:それでありがたいことにメディアの方から紹介させてという声がすごくて。ここまで認知されてきたのかな、と。ラジオ、テレビ、新聞、婦人雑誌の「クロワッサン」だったり、各メディアさんに取り上げられました。
ー:ネットでも話題になってました。
ー:たぶんあれですよね。内容がメジャーなレシピ本とは違って唯一無二だから取り上げられるみたいな。
渡辺:時代はどちらかというと「手を抜こう。でもおいしいよ」っていう本が好きじゃないですか。
ー:これはさばくところからですもんね。
渡辺:だから「時代に逆行していますよね」っていうふうにもけっこう言われました。だってスーパーでいきなり1匹丸ごと買う人っていないですよね。
ー:発売して最初の動きってどんな感じだったんですか?
渡辺:最初5000部刷っていたんですけど、ぜんぜん足りないんですよ。
ー:おお。
渡辺:実際すぐなくなって、でも、うれしいですね。うれしい誤算ですし、最初のほうに言った通り、月産できる数が決まっているので、いますぐ3万欲しい、5万欲しいというのはできなかったので。3000できたらとりあえず入れてくれとか。
ー:そこでこだわった仕様が裏目に。
一同:(笑)。
渡辺:北海道からこっちにくる移動の時間と料金がバカになんないです。
ー:工業製品っていうより手づくり感がすごいですね。
渡辺:全部もう、職人の手がかかっています。
30年前の到達点をいま、超えられるかもしれない
ー:あらためていままでの営業とこの本の場合って相当違うものなんですか?
渡辺:相当ありました。さっきも申し上げた通り、釣りの単行本をやってはいたんですけど、まったく扱いが違うんですよね。
極端にいうと、書店さんによって釣りのコーナーがないところもあるんですよ。けどこれは置いているっていう。要はレシピ本のコーナーがありますから。
ー:そうですよね。レシピ本。
渡辺:だからはじめてそこで「つり人社」っていう存在を知ったとか、一応、戦後翌年からの創刊でもう75年以上歴史はあるけども、それはやっぱり知られているところだけの話で。「ツリジンシャ、ツリビトシャ、どっち?」みたいな、そんな感じですよ。
ー:なるほど。
渡辺:なので営業もぜんぜん違います。いままで飛び込みで営業に行って釣りの棚を見に行くと、月刊誌が2点ぐらいあるだけね、みたいなそういう書店さんでも、料理コーナーに行くとこの本が置いてもらっているとかあるんですよね。
どちらかというと釣り具店さんの方が、つり人社の本はちゃんとしているものだと知ってくれていて。関西向けに弊社の釣りのテレビ番組をやっていたんで。
ー:テレビ番組。
渡辺:テレビ番組のCMにこの本が出てましたから。
ー:すごい。
渡辺:だからこの間の大阪のフィッシングショーで「あ! これテレビでよく見た」っていう声も多かったです。「でもどこ行っても売ってないから、ようやくはじめて手に取れたわ」って言って。やっぱりリアル店舗の配本を一生懸命やらないと、いくら宣伝してもらっても……。
ー:たどり着けないんだ。
渡辺:売り損じるというか、機会損失が多かったんだなと思います。
ー:そうなんですね。
渡辺:これもちょっとね、参考までにきょう持ってきたんですけれど。
渡辺:また重版かかってこれも4万1000部までいったんですけど。
ー:すごいですね。
渡辺:この2点を新聞広告に出して、6対4ぐらいかな、比率はお魚レシピのほうが大きいですけど。それで、書店さんには新聞広告打ちます、インセンティブも付けてやりますよって同じように案内するけども「こっち(さかな・釣り検索)はいらないよ」って。
ー:それは……。
渡辺:釣りの棚がないじゃないですか。
ー:置く場所がない。
渡辺:いままで一生懸命こっち(さかな・釣り検索)を営業していました。で、つり人社の力はこんなものっていうのなんとなくこう見えてきていたつもりだったんですけど。でも、この本の登場で……。
ー:殻が破けた。
渡辺:弊社、この75年以上も長い歴史の中で10万部いった単行本ってないんですよ。月刊誌はあるんですけど、単行本で一番売れたのが9万9000部かな……。それも30年前とかなので。
なので、「釣りの本ってだいたいこんなもんだね」っていうリミッターを、長い歴史の中で自分たちで付けてきたんじゃないんでしょうかね。
ー:なるほど。
渡辺:だから、その中での営業だったんですよ。おかげさまでこれは発売1年たたないうちに6万部だなんて、なかったです。
営業していて幸せ。外に出たくてたまらない
渡辺:あと、ニューヨークのマンハッタンに「MTC Kitchen」っていう調理器具屋さんがあるんですよ。日本の包丁や器なんかを輸入して、向こうで売っているんですけど。そこでこの本がバカ売れしていると。しかも英訳していない。
ー:え、このままでですか?
渡辺:はい。なぜそれがわかったかというと。まずは、MTC Kitchenの店長が著者の大垣さんに直接メッセージ送ったんですよ。「みなさん、ニューヨーカーがとても喜んで買ってくれている。こんな素晴らしい本をほんとうにありがとうございます」って。
そして大垣さんからうちのほうに「こういう話になっています、うれしいですね」ってお知らせくださって。
速攻でMTC Kitchenにコンタクト取って、どこで仕入れているんですかって失礼ながら聞いたら、実は、ニューヨークの紀伊國屋さんからまとめ買いして売っているんですね。
ー:紀伊國屋書店 ニューヨーク店。
渡辺:流通コストがあるから向こうでは5000円ぐらいで仕入れてくださったようで。30冊入ったら30冊完売みたいになっている。
―:なんだかすごい話。
渡辺:正直これだけコロナ禍もあって、コスト増もあって、出版業界も大変……でもなんていうんですかね。売れるものは売れるんだなっていうか。
ー:いいことです。
渡辺:お客さんが欲しがるものは、しっかりしたものがちゃんとあれば手に取っていただけるんだなっていうのはほんとうに肌で感じているし。3年ぶりに直接販売する機会もあって、その中でもそういうのはダイレクトに伝わったので。
「これ欲しかったの」とかね「やっぱりいい本ね」って。その「やっぱり」って、前の情報がないと「やっぱり」って付かないじゃないですか。なのでうれしかったですね。
弊社もいま、なかなか雑誌が厳しい中で、月1に会議があるんですけど、プレゼンする中でこの話をすると、やっぱりみんな熱くなりますね。それは良かったと思います。
ー:いいですね。
渡辺:たぶん、一番営業していて幸せな時期かもしれないです。
ー:すごいですね。
渡辺:苦しい中でこれだけこう、たぎっているっていうか、いま楽しいですもん。外出たくてたまらないです。
ー:最高ですね。営業冥利(みょうり)というか。
渡辺:ありがとうございます。
ー:ありがとうございます。
1冊の本のヒットによって、渡辺さんや会社全体のあり方が変化していく様がお話を通じて伝わってきました。75年という歴史ある会社でも新しいチャレンジで変化が起こるんだ、と感じました。
この取材のあと、世界最高峰といわれる英国のデザイン賞『D&AD Awards』の2023年ブックデザイン部門にて、『お魚イラストレシピ大百科』がブロンズ賞に相当する「Wood Pencil」を受賞したとのこと。まだまだ勢いは止まらなそうです。
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